石山合戦

概要
石山本願寺の顕如が信長に立った。10年。一向宗の門徒、雑賀の鉄砲、毛利の水軍、伊勢長島と越前の一揆。信長は長島で2万人を焼き殺し、越前で3〜4万を殺した。1576年、木津川口で毛利水軍に負け、1578年、鉄甲船6隻で勝った。1580年、正親町天皇の仲介で顕如が退去した。本願寺は焼け、その跡に秀吉が大坂城を建てた。
場所
34.69°N 135.53°E · 日本・大阪府
関わった人(2)
顕如AD1543年2月20日–AD1592年12月27日 · 立った織田信長AD1534年–AD1582年6月21日 · 囲んだ本文
大坂の上町台地の北の端、淀川と大和川の流れが集まるあたりに、浄土真宗本願寺派の本拠があった。8代の蓮如が明応5年(1496年)にここに坊舎を開いたのが始まりで、1532年に京都の山科本願寺が焼かれたあと、教団の中心が移ってきた。寺の周りには門徒の商人や職人が住む寺内町が広がり、堀と土塁で囲まれていた。寺であると同時に、城であり、町だった。この寺を「石山本願寺」と呼ぶのは江戸時代になってからの呼び方で、当時は大坂本願寺、あるいは単に大坂と呼ばれていた。
本願寺は、全国に広がる門徒の組織を持っていた。門徒は講という集まりを作り、寺に志納金を送り、門主の呼びかけには武器を持って立った。加賀ではすでに1488年に門徒が守護を倒し、およそ100年にわたって「百姓の持ちたる国」を作っていた(加賀の一向一揆)。11代門主の顕如は、公家とも縁を結び、大名と並ぶ力を持つ存在だった。

1568年、織田信長が足利義昭を奉じて京に入った。信長は畿内の寺社や町に矢銭(軍資金)を課し、本願寺にも5000貫を求めた。本願寺はこれに応じた。しかし信長にとって、大坂という水運の要の地を、自分に従わない巨大な組織が押さえていることは許しがたかった。信長が本願寺に大坂からの立ち退きを求めた、と伝える史料もある。
1570年9月、信長が摂津の野田・福島で三好三人衆の軍と戦っているさなか、本願寺は突然、織田の陣に攻めかかった。顕如は諸国の門徒に檄文を送り、信長は仏法を滅ぼそうとしている、立ち上がらない者は門徒ではない、と呼びかけた。これから10年にわたる戦いが始まる。本願寺は、越前の朝倉、近江の浅井、甲斐の武田、そして将軍義昭と結び、信長を囲む網の一角になった。伊勢長島では同じ年の11月、一揆勢が尾張の小木江城を攻め、信長の弟の織田信興を自害に追い込んだ。
信長はこの網を一つずつ断ち切っていった。1571年には、浅井・朝倉に味方した比叡山延暦寺を焼き討ちにした。1573年には義昭を京から追い、浅井と朝倉を滅ぼした。そして矛先を一向一揆に向けた。1574年夏、信長は伊勢長島を陸と海から囲み、兵糧攻めにした。飢えた一揆勢が降伏して城を出てくると、船で退く者を鉄砲で撃ち、残る中江・屋長島の砦に籠った男女およそ2万人を、柵で囲んで火を放ち焼き殺した、と『信長公記』は記す。翌1575年には越前に攻め入り、一揆勢を山狩りで追った。信長は京都にいた村井貞勝に宛てた書状で、府中の町は死骸ばかりで空いた所が一つもない、と書いている。殺された人数を『信長公記』などは3万から4万と伝える。
本願寺そのものは落ちなかった。寺は紀伊の雑賀衆を味方につけていた。雑賀衆は鉄砲の扱いに長けた地侍の集団で、傭兵として各地の戦に出ていた。1576年5月の天王寺の戦いでは、信長自身が足を撃たれて負傷している。信長は寺の周りに砦を築いて陸からの補給を断ったが、大坂は海に開いていた。

その海の道を支えたのが、中国地方の毛利氏だった。1576年7月、毛利方の村上水軍を中心とする数百艘の船団が、大坂湾の木津川口で織田方の水軍と戦った。毛利方は焙烙火矢と呼ばれる、火薬を詰めた焼き玉を投げ込み、織田方の船を次々に焼いた。兵糧は本願寺に運び込まれた。この敗戦のあと、信長は伊勢の水軍の将、九鬼嘉隆に大船の建造を命じた。1578年、九鬼は6隻の大船を率いて大坂湾に入った。この船は鉄の板で覆われていたと、奈良の僧の日記『多聞院日記』が伝聞として記している。もっとも、船体のどこまでが鉄で覆われていたのか、本当に鉄張りだったのかは研究者の間で議論がある。同じ年の11月、第二次木津川口の戦いで、九鬼の大船は大砲と鉄砲で毛利の船団を退けた。海の補給路が閉じた。
同じ1578年には、摂津の荒木村重が信長に背いて本願寺と結んだが、翌年には有岡城が落ちた。雑賀衆の一部も信長に降った。本願寺は孤立していった。

1580年閏3月、正親町天皇の勅命という形で講和が結ばれた。信長が天皇を動かしたもので、本願寺が大坂を退去すれば、門徒の身の安全と加賀の一部の返還を約束する、という内容だった。4月、顕如は大坂を出て紀伊の鷺森へ移った。ところが長男の教如は講和を拒み、なお寺に立てこもった。教如もついに8月に退去したが、その直後に寺から火が出て、本願寺は三日三晩燃え続けたという。誰が火をつけたのかは分かっていない。
10年の戦いが残したものは大きい。この父子の対立は、のちに本願寺が東西に分かれる遠因になった。秀吉の時代に教如は隠居させられたが、1602年、徳川家康が教如に京都の寺地を与え、本願寺は西本願寺と東本願寺の二つになった。そして信長は、宗教勢力が大名と並ぶ武力を持つ時代を終わらせた。この後、一向一揆が国を動かすことはなかった。

信長は本能寺で倒れ、大坂の地を手にしたのは豊臣秀吉だった。1583年、秀吉は本願寺の跡に大坂城を築き始めた。いまの大阪城の下には、豊臣時代の城の石垣が埋もれていることが分かっている。本願寺の伽藍がそのどこにあったのかは、まだはっきりしていない。寺の遺構は、二つの城の下に重なって眠っていると考えられている。