鎖国の完成
概要
窓口を長崎の出島などに絞った。外を完全に閉じたのではなく、幕府が交易を独占した状態に近い。
場所
32.74°N 129.87°E · 日本・長崎県
関わった人(1)
徳川家光AD1604年8月12日–AD1651年6月8日 · 将軍本文
1639年、江戸幕府はポルトガル船の来航を禁じた。将軍は徳川家光である。ポルトガルの船が日本に来るようになって100年近く、長崎はその交易で栄えた港町だった。翌1640年、マカオから貿易の再開を願う使節が長崎に来たが、幕府は一行の大半を処刑し、残りを送り返した。決定が本気であることを示すためだった。
ここに至るまでには、20年以上の段階があった。1614年に幕府は全国にキリシタン禁教令を出し、宣教師を国外へ追った。1616年にはヨーロッパの船の寄港地を長崎と平戸に限り、1624年にはスペイン船の来航を禁じた。イギリスは商売がふるわず、それより前に自ら平戸の商館を閉じている。1630年代に入ると、日本人の海外渡航にも枠がはめられ、1635年には日本人が海外へ渡ることも、海外にいる日本人が帰国することも全面的に禁じられた。東南アジア各地にあった日本町は、この後しだいに消えていく。
長崎の港には、扇形の人工の島が築かれた。1636年に完成した出島である。もとはポルトガル人を市中から隔てて住まわせるために、長崎の町人たちが出資して造った。その翌年、九州で島原の乱が起きる。重い年貢とキリシタンへの弾圧に苦しんだ農民たちが原城に立てこもり、幕府は12万ともいわれる軍勢を動かして、ようやくこれを鎮めた。この乱が、ポルトガル船の来航禁止を決定づけたとされる。

ポルトガル人が去ったあとの出島には、1641年、平戸からオランダの商館が移された。オランダは、布教をしないことを条件に交易を許された。オランダ人は約1.3ヘクタールの島の中で暮らし、外に出られるのは許された場合だけだった。その数少ない機会が、商館長が江戸に上って将軍に拝謁する参府で、17世紀末には、商館付きの医師として来日したドイツ人ケンペルもこの旅に加わり、道中の日本を細かく書き留めた。この1641年をもって、いわゆる鎖国の体制が整ったと見ることもある。
ただし「鎖国」という言葉は、当時のものではない。そのケンペルが帰国後に日本について書いた本があり、その中に、日本が国を閉ざしていることを論じた一章がある。1801年、長崎のオランダ通詞だった志筑忠雄がこれを訳し、「鎖国論」と名付けた。これが言葉の始まりとされる。広く使われるようになったのは、幕末に開国が論じられるようになってからである。
実際には、外とのつながりは「四つの口」を通して続いていた。長崎ではオランダと中国の商人と交易した。中国の明や清とは正式な国交が無く、中国の商船が来航して取り引きする形だった。対馬の宗氏は朝鮮と交易し、江戸時代を通じて朝鮮から十数回の通信使が江戸を訪れた。薩摩の島津氏は、薩摩の琉球侵攻以来支配下に置いた琉球を通じて、中国との交易品を手に入れた。松前の松前氏はアイヌとの交易を独占し、そのやり方への反発がシャクシャインの戦いを招いた。

変わったのは、外国と交わる窓口と担い手を、幕府が決めて管理するようになったことである。戦国時代には、九州の大名が独自に南蛮貿易を行い、鉄砲や火薬を手に入れ、宣教師を保護して力を蓄えた。大名が外国と結んで富と武器を得れば、徳川の支配を脅かしかねない。外交と貿易の主導権を幕府が握ることには、その芽を摘む狙いがあった。
貿易の量そのものは、鎖国の完成ですぐに減ったわけではない。17世紀の日本は中国産の生糸や絹織物を大量に買い、その代わりに国内の鉱山で掘った銀を、のちには銅を大量に送り出した。金銀の流出を憂えた新井白石は、1715年に長崎に来る船の数と取引の額に上限を設けた。管理の目的は、交易を止めることではなく、幕府の手綱のもとに置くことにあった。
キリスト教の禁止も、教えそのものより、政治の問題として受け止められた面が大きい。信者が領主や将軍より神への服従を優先すること、外国の勢力と結びつくことが警戒された。島原の乱は、その恐れを裏付けるものと受け取られた。のちに寺請制度で全員をどこかの寺の檀家として登録させ、信仰を監視する仕組みが整えられていく。
情報は入ってきていた。オランダ商館長は、来航のたびに海外の出来事をまとめた報告を幕府に出した。オランダ風説書である。ヨーロッパの戦争や、アジアでの植民地の動きは、限られた人々の間ではあるが把握されていた。18世紀には洋書の輸入の制限が緩められ、『解体新書』に代表される蘭学が育っていく。

同じころ、明や清、朝鮮も、民間の海外交易を国家が厳しく管理する「海禁」をとっていた。日本の体制も、東アジアに共通するこの型の一つとして見る研究者は多い。近年の教科書では「鎖国」に括弧を付けたり、「いわゆる鎖国」と書いたりするようになった。2017年には、学習指導要領の改訂案で「鎖国」の語を改める案が示されたが、意見募集を経て元に戻されている。この言葉をどう扱うかについては、今も議論がある。