できごと

明暦の大火

Great Fire of Meireki
AD1657年3月2日(明暦3年1月18日)
重要度 5
明暦の大火に関わる図版:Meireki fire
Meireki fire Wikimedia Commons 田代幸春 · Public domain

概要

本郷の本妙寺から、と伝える。2日燃えた。江戸の6割。江戸城の天守と本丸。死者10万人と言う。天守は再建されず、260年、江戸城に天守はなかった。両国橋が架けられ、隅田川の東に町が広がり、火除地と広小路が作られた。「振袖火事」。

場所

江戸
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)

本文

1657年3月2日、明暦3年の正月18日の昼過ぎ、江戸の本郷丸山にあった日蓮宗の寺、本妙寺のあたりから火が出た。火は北西の強い風にあおられて、翌々日の朝までの2日間、江戸の町を三度にわたって焼き尽くした。明暦の大火である。江戸の市街の6割ほどが焼け、江戸城の天守も焼け落ちた。死者は10万人を超えたとも伝えられる。

その冬、江戸では長く雨が降っていなかった。前年の暮れから80日ほど雨がなかったと伝えられ、町の家々は乾ききっていた。当時の江戸は、徳川家康の入府から70年ほどで急速に大きくなった町で、木と紙でできた家が密集していた。大火の4年前には、多摩川の水を町へ引く玉川上水が完成し、町はさらに膨らもうとしていた。

『むさしあぶみ』より、明暦の大火当時の浅草門。牢獄から解放された罪人達を「集団脱走している」と誤解した役人が閉門したので逃げ場を失った多数の避難民が炎に巻かれ、塀を乗り越えた末に堀に落ちていく状況。
『むさしあぶみ』より、明暦の大火当時の浅草門。牢獄から解放された罪人達を「集団脱走している」と誤解した役人が閉門したので逃げ場を失った多数の避難民が炎に巻かれ、塀を乗り越えた末に堀に落ちていく状況。Wikimedia Commons Terajima Ryōan (寺島良安, Japanese, *1654, †?) · Public domain

18日の午後に本郷から出た火は、湯島から神田、日本橋へと燃え広がり、夜には隅田川の河口に近い霊巌島や佃島、対岸の深川にまで及んだ。翌19日の昼前、今度は小石川の伝通院の近くから二つ目の火が出た。この火は江戸城に燃え移り、天守、本丸、二の丸、三の丸の御殿が焼けた。4代将軍の家綱は西の丸に逃れて無事だった。19日の夕方には、麹町から三つ目の火が出て、大名屋敷の並ぶ外桜田から芝の方角まで焼き払った。火がようやく収まったのは、20日の朝だった。

被害は江戸の大半に及んだ。大名屋敷が500ほど、旗本の屋敷が700あまり、寺社が300あまり、町人の町が400町ほど焼けたと伝えられる。死者の数は、翌年に出た仮名草子『むさしあぶみ』(浅井了意の作)が10万2000人あまりと記し、10万人という数字が広く知られている。ただし、正確な数は分からず、3万から10万あまりまで幅のある推計がある。

明暦の大火の犠牲者を慰霊する史跡の標識
明暦の大火の犠牲者を慰霊する史跡の標識Wikimedia Commons Fg2 · Public domain

多くの人が死んだのには理由があった。江戸の町は、防衛のために隅田川に橋を架けていなかった。千住大橋のほかには川を渡る橋がなく、火に追われた人々は川岸で行き場を失った。浅草の門では、逃げる人の群れが押し寄せたところで門が閉じられ、門の前で多くの人が折り重なって死んだと伝えられる。小伝馬町の牢屋敷では、牢屋奉行の石出帯刀が、囚人たちを焼け死なせるにしのびず、火が収まったら必ず戻れと言い含めて解き放った。囚人たちはみな約束どおり戻ってきたという。これがのちに大火の際の「切り放ち」の慣例になったと言われる。ところが浅草の門では、この解き放たれた囚人を脱獄と勘違いした役人が門を閉じた、という話も伝わっている。

明暦の大火は「振袖火事」とも呼ばれる。上野の裕福な商家の娘が、寺で見かけた美しい寺小姓に恋をして、その寺小姓が着ていたのと同じ柄の振袖を作らせ、恋わずらいのまま死んだ。振袖は棺にかけて寺に納められ、寺はそれを古着屋に売った。振袖を手にした別の娘も、さらにまた別の娘も、同じ年頃で死んだ。本妙寺で振袖を供養のために火に投じたところ、強い風が振袖を舞い上げ、寺の屋根に火がついた、という話である。よくできた因縁話だが、後世の作り話と考えられている。火元についても、本妙寺の隣にあった老中阿部忠秋の屋敷から出た火を、幕府の体面のために本妙寺が引き受けた、という説がある。大火のあと本妙寺が罰を受けず、かえって寺の格が上がったことが、この説の根拠に挙げられる。真偽ははっきりしない。

幕府は、焼け跡から江戸を作り直した。最も象徴的なのは、天守を建て直さなかったことである。土台の石垣は加賀藩の前田家によって築き直されたが、その上に天守が載ることはなかった。家綱を補佐していた会津藩主の保科正之が、天守は戦のための遠見に過ぎず、いまの世には要らない、その費用は町の復興に回すべきだ、と主張したと伝えられる。以後、幕末まで200年あまり、江戸城に天守はなかった。

町の作りも変わった。隅田川には両国橋が架けられ(1659年とも1661年ともいう)、川の東の本所や深川に町が広がった。火の燃え移りを防ぐための空き地である火除地や、幅の広い道の広小路が各地に設けられた。上野広小路はその名残である。江戸城の周りに集まっていた大名屋敷や寺社は、城の外側や郊外に移された。日本橋の近くにあった遊郭の吉原は、すでに決まっていた移転を早めて、浅草の裏手の日本堤へ移った(吉原の公認)。幕府は旗本に命じて火消の組を作らせ、これが定火消になった。江戸の町が大きく外へ広がり、のちの「大江戸」の形ができあがったのは、この大火のあとである。

身元の分からない死者は、隅田川の東岸に運ばれて葬られた。幕府はそこに寺を建てて供養させた。両国の回向院である。宗派を問わずあらゆる死者を弔う寺として、のちには安政の大地震の死者や、刑死者、動物の供養も引き受けるようになった。

江戸はその後も火事に悩まされ続けた。「火事と喧嘩は江戸の華」と言われたように、大きな火事は数え切れないほど起きている。1772年の明和の大火、1806年の文化の大火は、明暦とともに江戸三大大火と呼ばれる。明暦の大火から60年ほどのちには、町人による江戸の町火消も組織された。江戸の町は、焼けては建て直し、そのたびに形を変えていった。

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