毛利元就
概要
安芸の小領主の次男。10歳で孤児、家臣に城を取られて「乞食若殿」。兄と甥が死んで家を継いだ。次男を吉川、三男を小早川に養子に出して両川を作り、厳島で陶を破り、大内を取り、尼子を10年かけて落とした。中国地方10か国。「三本の矢」は作り話で、「三子教訓状」は本物。75歳。
所属
毛利氏関わったできごと(1)
厳島の戦いAD1555年10月16日(天文24年10月1日) · 誘い込んだ本文
1497年、安芸の国の山あいにある吉田郡山城のあたりで、毛利弘元の次男として生まれた。毛利家は鎌倉幕府の重臣大江広元の子孫を名乗る家だったが、この時代には安芸の国人(土地に根を張る小領主)の一つにすぎず、西の大内氏と、のちに東から勢力を伸ばす尼子氏という二つの大国の間で、どちらにつくかを迫られ続ける立場だった。

元就の少年時代は不運続きだった。父は早くに家督を兄の興元に譲り、元就を連れて多治比の猿掛城に隠居した。5歳で母を、10歳で父を亡くした。父は酒に溺れた末の死だったとされる。父の死後、後見役の家臣井上元盛に城と領地を奪われ、元就は城を追い出された。この時期の元就を、人々が「乞食若殿」と呼んだと伝えられる。元就を引き取って育てたのは、父の側室だった杉大方である。若い身で再婚もせず元就を養ったこの養母に、元就は生涯感謝し続けた。
20歳のとき、兄の興元が24歳で急死した。これも酒が原因だったと言われる。跡を継いだのはわずか2歳の甥の幸松丸で、元就はその後見役となった。翌1517年、その隙を突いて安芸の武田元繁が攻め寄せたとき、元就は初陣で寡兵を率いてこれを破り、元繁を討ち取った。少ない兵で大軍の大将を倒したこの戦いは、のちに「西の桶狭間」と呼ばれることもある(桶狭間の戦い)。

1523年、幸松丸が9歳で亡くなると、27歳の元就が家臣たちに推されて毛利家を継いだ。だが家中には、元就の異母弟を当主に立てようとする者たちがいて、その背後には尼子氏がいた。元就はこの弟を討ち、加担した家臣を処分した。家督の継承は、肉親の血で始まった。
元就は尼子氏から離れ、大内氏の側についた。1540年、尼子晴久が3万ともいわれる大軍で吉田郡山城を囲んだ。元就は城下の農民までを城に入れて籠城し、数か月にわたって守り抜いた。年が明けて大内氏の援軍が到着すると、尼子軍は兵を引いた。この勝利で、元就の名は中国地方に知られるようになった。

元就が最も力を尽くしたのは、家の外へ根を広げることだった。三男の隆景を安芸の名門小早川家に、次男の元春を同じく安芸の吉川家に、それぞれ養子として送り込んだ。小早川家では本家の当主が若くして盲目であったのを機に隆景に家を継がせ、吉川家では当主の吉川興経を隠居に追い込んで元春を当主にした。興経はのちに殺されている。毛利本家を、吉川と小早川の二つの家が両側から支える形ができあがった。これが「毛利両川」と呼ばれる体制である。同じ1550年、元就は、長年毛利家の中で横暴をふるっていた井上元兼の一族30人あまりを一度に討った。そのうえで、家臣238人に、今後は主君の命令に従うと誓う起請文を出させた。国人の連合の盟主にすぎなかった毛利家が、家臣を従える大名に変わった瞬間だった。
1551年、大内家の重臣陶隆房(のちの晴賢)が主君の大内義隆を討ち、大内家の実権を握った。元就はしばらく陶に従う姿勢を見せたが、1554年に手を切った。翌1555年、陶晴賢は2万ともいわれる大軍を率いて、安芸の厳島に元就が築いた城を攻めた。元就は4000ほどの兵で、嵐の夜に島へ渡り、狭い島に陣を敷いた陶軍の背後から奇襲をかけた。村上水軍が海を押さえて退路を断ち、陶晴賢は自害した(厳島の戦い)。元就はその後、大内家の残る勢力を攻め、1557年に周防と長門を手に入れた。

次は東の尼子氏だった。尼子氏の本拠、出雲の月山富田城は堅固な山城で、元就は周りの城を一つずつ落とし、兵糧の道を断って、数年をかけてじわじわと追い詰めた。1566年、尼子義久は降伏した。この間、世界有数の産出量を誇った石見銀山も毛利の手に入っている。こうして元就は、一代で安芸の小領主から中国地方の大部分を支配する大名になった。
1557年、60歳を過ぎた元就は、長男の隆元、次男の元春、三男の隆景にあてて、14か条にわたる長い手紙を書いた。いわゆる「三子教訓状」である。毛利の名を末代まで大切にせよ。三人の間に少しでも隔てがあれば、三人とも滅びると思え。元春と隆景は他家を継いだとはいえ、毛利本家を支えることを忘れるな。手紙には、自分は多くの人を殺してきたので、その報いが子孫に及ぶのではないかと恐れている、という告白まで書かれている。原本は今も毛利家に伝わっている。

有名な「三本の矢」の話、すなわち死の床の元就が息子たちに矢を1本ずつ折らせ、次に3本を束ねて折らせようとして結束の大切さを説いたという話は、この教訓状をもとに後の時代に作られたものである。元就が死んだとき、長男の隆元はすでに8年前に亡くなっていて、三人の息子が枕元にそろう場面はありえなかった。似た話はモンゴルの伝説や西洋の寓話にもある。
元就は酒を飲まなかった。父と兄を酒で失ったからである。息子や孫にも、酒はほどほどにせよと何度も手紙で戒めている。手紙を書くことが多く、細かい指示や愚痴まで書き連ねた手紙が数多く残っている。謀略にたけた武将として知られ、多くの謀を巡らす者が勝ち、少ない者が負ける、という意味の言葉を残したとされる。

晩年は不幸も重なった。1563年、跡継ぎの隆元が41歳で急死した。招かれた宴の後のことで、毒殺の疑いも持たれた。元就は隆元の子の輝元を後継ぎとし、自ら後見を続けた。1571年、吉田郡山城で亡くなった。数えで75歳だった。天下を望むな、領国を守ることに専念せよ、という戒めを残したと伝えられる。
孫の輝元は、その戒めを守りきれなかった。1600年の関ヶ原の戦いで西軍の総大将に担がれた。戦いの後、中国地方の大半を領していた毛利家は、周防と長門の2か国に減らされた。本拠は日本海側の萩に移された。この恨みが長州藩の中で200年以上語り継がれた、という話も伝わる。そして幕末、その萩から出た志士たちが、徳川の幕府を倒す中心となった(長州藩)。一代で築いた国を、子孫が守り、その子孫の国がやがて時代を動かした。元就の遺したものは、領国だけではなかった。