人物

大岡忠相

Ooka Tadasuke
AD1677年 – AD1752年(享年75・推定)
江戸幕府重要度 3

概要

旗本の四男。山田奉行を経て、1717年から十九年間、江戸の町奉行を務めた。吉宗の享保の改革の実務を担った。町火消いろは組の設置、小石川養生所の開設、目安箱に寄せられた訴えの処理、物価と米価の統制、そして公事方御定書の編纂に関わった。裁きの逸話を集めた大岡政談は後世の作り話が大半で、実際の彼は制度を作る行政官である。晩年は寺社奉行、そして大名に列した。

関わったできごと(1)

江戸の町火消AD1718年 · 作らせた

本文

大岡忠相(おおおか ただすけ)は1677年、旗本大岡忠高の四男として江戸に生まれた。通称の越前守(えちぜんのかみ)の名で知られる。四男は家を継ぐ立場にない。10歳のとき、同じ一族の大岡忠真の養子に入り、のちにその家の娘を妻に迎えて家督を継いだ。

大岡忠相の肖像
大岡忠相の肖像Wikimedia Commons 不詳 · Public domain

旗本として将軍の警護の役などを務めたあと、1712年に山田奉行になった。伊勢神宮のある山田の町を治め、裁判も受け持つ、幕府の直轄地の役職である。この時期の逸話として、山田と隣の紀州藩の領地との境をめぐる争いで、御三家の紀州藩に遠慮せず不利な裁きを下したという話がある。その藩主がのちの将軍徳川吉宗で、将軍になった吉宗がこのときの公正さを覚えていて彼を引き立てた、と語られる。もっとも、この話は史料の裏づけが弱く、後の世の物語である可能性が高い。

1716年に吉宗が将軍になると、忠相は普請奉行を経て、翌1717年2月、41歳で江戸の町奉行に任じられた。江戸の町人地の行政、警察、裁判を一手に担う要職である。それから19年、彼はこの職にあった。町奉行の在任としては極めて長い。

徳川吉宗
徳川吉宗Wikimedia Commons Kanō Tadanobu · Public domain

忠相は、後世には名裁判官として名高い。だが実際の彼は、何よりも制度を作る行政官だった。吉宗の進めた享保の改革の、江戸の町での実務を担ったのである。

まず火事である。江戸は火事の多い町で、明暦の大火のように町の大半を焼き尽くす大火も起きていた。ところが、消火を担っていたのは武家の火消で、守るのはまず江戸城と武家屋敷、町人の住む町は後回しにされがちだった。忠相は1718年、町ごとに火消の組を作らせ、1720年にはそれを「いろは」の文字を組の名にした47の組に編み直した(江戸の町火消)。自分たちの町は自分たちで守る仕組みであり、幕府にとっては費用を抑える策でもあった。屋根を燃えにくい瓦にすることを勧め、火除けの空き地を設けることも進めた。

明暦の大火に関わる図版:Meireki fire
明暦の大火Wikimedia Commons 田代幸春 · Public domain

次に、病人である。1721年、吉宗は評定所の前に、庶民が直接将軍に訴えを届けられる目安箱を置いた。翌年、町医者の小川笙船が、身寄りのない貧しい病人のための施設を作ってほしいと投書した。吉宗がこれを取り上げ、忠相が実現にあたった。こうして小石川の薬草園の中に、無料で治療を受けられる養生所が開かれた。はじめは、入ると薬の実験台にされるのではといった噂が立って人が集まらず、忠相は町の有力者を見学させて噂を打ち消したという。養生所は幕末まで続いた。

物価の問題にも取り組んだ。武士の給料は米で支払われるので、米の値が下がれば武士が困り、上がれば町人が困る。米の値と諸物価の釣り合いをとるため、忠相は同じ商品を扱う商人たちに仲間を作らせ、それを通じて値段を統制しようとした。だがこの問題は、吉宗の時代を通じて解決しきれなかった。飢饉の備えとして、学者の青木昆陽を引き立て、甘藷(さつまいも)の栽培を試させたのも、忠相の仕事として知られる。

縛られ地蔵の像
縛られ地蔵の像Wikimedia Commons No machine-readable author provided. SteveofCaley assumed (based on copyright claims). · CC BY 2.5

もう一つの大仕事が、幕府の裁判の基準となる法典『公事方御定書』の編纂である。1742年に完成し、忠相はその作業の中心にいた一人だった。ただしこの法典は公開されず、奉行など限られた役人しか見られなかった。民が法の中身を知れば、その裏をかこうとする、と考えられていたからである。

1736年、忠相は寺社奉行に移った。寺社奉行はふつう大名が就く役で、旗本の彼は異例の扱いを受けた。1748年には加増を受けて三河国西大平に1万石を与えられ、大名になった。町奉行を務めた人で大名にまでなったのは、彼だけとされる。1751年に吉宗が死ぬと、その葬儀の役も務め、翌1752年に死んだ。75歳だった。家は西大平藩主として幕末まで続いた。

彼の死後、その名で語られる裁きの物語が次々に生まれた。講談や読み物になった「大岡政談」である。三人がそれぞれ一両ずつ損をして丸く収める「三方一両損」、二人の母が子の手を引き合い、子が痛がるのを見て手を離したほうを本当の母と見抜く「子争い」。そのほとんどは作り話で、「子争い」は中国の裁判の説話集にある古い型の話であり、さらにさかのぼれば旧約聖書のソロモンの裁きと同じ形をしている。世界中にある知恵比べの話が、彼の名を借りて語られたのである。実在の事件を下敷きにした話もあるが、そこにも多くの脚色が加わっている。

なぜ彼が名奉行として記憶されたのか。倹約と増税を柱にした享保の改革は、町人にとって厳しいものだった。その中で、町火消や養生所は、町人の暮らしに直接役立つ政策だった。しかも彼の在任は19年と長く、「大岡様」の名は江戸の人々の記憶に深く刻まれた。彼が作った町火消の組は、幕末を越えて明治以後まで、形を変えて受け継がれていった。

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