熊野比丘尼の絵解き
概要
戦国の世、熊野の社寺は荒れた建物を直す金に困り、尼の姿をした女たちを諸国に送り出した。女たちは巻いた大きな絵を持ち歩き、村の辻や家の軒先で広げて語った。上のほうには、生まれた子が坂を登って老い、坂を下って死ぬまでの一生が描かれている。その下には地獄があり、血の池や、子を産まなかった女が落ちる地獄も描かれている。字の読めない女や子どもが、絵を指でたどりながら話を聞き、寄進をした。字を使わずに教えを運んだのは、紙の上の絵と、語る声だった。
場所
33.84°N 135.77°E · 日本・和歌山県
本文
紀伊半島の南、深い山の中に、熊野本宮、新宮、那智の三つの社がある。熊野三山と呼ばれ、平安時代の後期には、院や貴族たちが京から何日もかけて行列を組んで参詣した。後白河院は生涯に30回を超えて詣でたと伝えられる。やがて武士や庶民も続き、その列の長さは「蟻の熊野詣」と言われた。山の社寺は、院や貴族の寄進と、各地に持つ荘園からの収入で支えられていた。
戦国の世になると、その支えが崩れる。院も貴族も力を失い、荘園は武士に押さえられて年貢が届かなくなった。応仁の乱の後、都そのものが荒れていた。社殿が傷み、火事で焼けても、建て直す金が無い。そこで熊野の社寺は、人々から寄進を募って回ることにした。こうした募金を勧進という。

勧進を担ったのは「本願」と呼ばれる寺院の組織で、そこに属する山伏や尼の姿をした女たちが諸国へ出ていった。女たちは熊野比丘尼と呼ばれた。比丘尼は出家した尼を指す言葉だが、彼女たちが正式に出家していたとは限らない。熊野の本願から許しを得て、熊野の名のもとに旅をし、寄進を集める女たちだった。
比丘尼たちが持ち歩いたものがいくつかある。熊野の神の使いである烏の文字で刷られた護符、牛玉宝印。那智の滝や参詣の道筋を描いた絵。そして、大きな絵を巻いたものである。熊野観心十界曼荼羅と呼ばれ、縦横とも1メートル半ほどの紙に、人の一生と死後の世界が描かれていた。

絵の上のほうには、山の形をした半円の坂道が描かれている。左のふもとで赤子が生まれ、坂を登るにつれて子どもになり、若者になり、大人になる。頂を過ぎると、坂を下りながら腰が曲がり、髪が白くなり、右のふもとで死に、墓に入る。「老いの坂」と呼ばれる部分である。坂の脇には季節の木々が描かれ、春から冬へと移っていく。
絵の真ん中には「心」という字が大きく書かれ、そこから十の世界が広がる。仏の世界から、人の世界、餓鬼の世界、そして地獄まで。人の心の持ちようで、どの世界にも行き着く、という教えである。下半分を占める地獄には、鬼に追い立てられる罪人、煮え立つ釜、燃える車、針の山が描かれている。平安時代の源信『往生要集』以来の、なじみの地獄の姿である。
その中に、女のための地獄がある。血の池地獄は、お産や月の障りで流した血の穢れによって女が落ちるところだと説かれた。子を産まずに死んだ女が、灯心で竹の根を掘り続けさせられる不産女(うまずめ)地獄もある。この絵は、とりわけ女の聞き手に向けられていた。
比丘尼たちは、村の辻や家の軒先で絵を広げた。集まるのは、家の仕事の合間の女たちと子どもたちである。比丘尼は細い棒で絵の一場面を指し、「ここが血の池」と語り始める。どんな罪でここに落ちるのか、そこでどんな苦しみを受けるのか。そして、どうすれば救われるのかを語った。救いの道は、熊野の神仏にすがること、血の池から救ってくれるという経の護符を受けること、そして寄進をすることだった。
字の読めない人に、経を読ませることはできない。教えを説いた書物を渡しても役に立たない。だが絵なら見える。声なら聞こえる。比丘尼の絵解きは、字を使わずに教えを運ぶ方法だった。女が女に語り、女の苦しみと救いを語ることで、比丘尼たちは男の僧には入りにくい家の奥まで入っていった。
江戸時代の初めまで、熊野比丘尼は各地を歩いた。だが17世紀の半ばになると、様子が変わる。世の中が落ち着き、熊野の本願の組織が力を失うと、比丘尼たちは熊野とのつながりを薄めていった。絵を解くよりも、流行りの歌を歌って銭をもらうようになり、「歌比丘尼」と呼ばれるようになる。町に住みついて色を売る者も現れた。井原西鶴は『好色一代女』で、そうした比丘尼の姿を描いている。
絵を見せながら語る芸は、熊野だけのものではなかった。寺の由来を描いた縁起の絵、地獄の絵、聖人の一生を描いた絵巻を、僧や芸能者が人々の前で解いて聞かせることは、中世の日本に広く見られた。遠いヨーロッパでも、シャルトル大聖堂の色ガラスの窓は、字を読めない信者に聖書の物語を見せていた。
字の読めない人に届けるには、二つのものが要る。見せるものと、語る人である。絵だけでは意味は伝わらない。語る人がいて初めて、絵が物語になる。400年後、東京の路地で自転車の荷台に木の枠を載せ、拍子木を打って子どもを集めた街頭紙芝居の語り手たちも、同じことをしていた。