文永の役
概要
元と高麗の900隻、3万が対馬と壱岐を襲い、博多に上陸した。てつはう、集団戦、毒矢。武士は一騎討ちの名乗りをして囲まれた。一日戦って、元軍は船に戻り、翌朝いなかった。嵐で帰ったのか、最初から威力偵察だったのか、いまも議論がある。
場所
33.59°N 130.40°E · 日本・福岡県
関わった人(2)
北条時宗AD1251年–AD1284年 · 執権フビライ・ハンAD1215年–AD1294年 · 送った本文
1274年11月19日(文永11年10月20日)、元と高麗の連合軍が博多湾の沿岸に上陸し、九州の武士たちと一日にわたって戦った。日が暮れると元軍は船に引き上げ、翌朝、博多湾から姿を消していた。日本が初めて大陸の帝国の軍に攻め込まれた、文永の役である。
モンゴル帝国の5代目の皇帝フビライ・ハンは、1260年に即位すると、都を大都(いまの北京)に移し、1271年には国の名を中国風に大元と改めた(モンゴル帝国の拡大)。最大の目標は、長江の南に残る南宋を滅ぼすことだった。朝鮮半島の高麗は30年近い抵抗のすえ、すでにモンゴルに服属していた。フビライは、海の向こうの日本にも目を向けた。

1266年、フビライは日本に宛てた国書を書き、高麗を通じて送らせた。国書が大宰府に届いたのは1268年の初めである。そこには、大蒙古国の皇帝が日本国王に書を奉る、とあり、互いに使いを通わせて親しくしようと呼びかけたうえで、兵を用いることを誰が好むだろうか、と結ばれていた。丁寧な言葉の中に、従わなければ攻めるという脅しが込められていた。
鎌倉幕府はこの国書を朝廷に回した。朝廷では返書の案も練られたが、幕府は返事を出さないと決めた。1268年、18歳の北条時宗が執権に就いた。その後もフビライは何度も使者を送ったが、日本は応じなかった。1271年には、九州に所領を持つ東国の御家人たちに、九州に下って守りを固めるよう命じている。

フビライの出兵が遅れたのは、高麗の内乱のためでもあった。高麗の軍の一部、三別抄と呼ばれる部隊がモンゴルへの服属に反対して反乱を起こし、珍島や済州島に拠って、1273年まで抵抗を続けた。反乱が鎮まると、フビライは高麗に大量の軍船を造らせた。
1274年10月3日(旧暦)、元と高麗の連合軍は、朝鮮半島南岸の合浦を出航した。総司令は忻都、副司令は洪茶丘と劉復亨、高麗軍の指揮官は金方慶。軍船は900艘、兵の数は、モンゴル人と漢人の兵が2万ほど、高麗の兵が数千、それに水夫を加えて、全体で3万前後とされる。ただし兵の数は史料によって違い、はっきりしない。

連合軍は10月5日、対馬を襲った。守護代の宗資国はわずかな兵で迎え撃ち、討ち死にした。14日には壱岐が襲われ、守護代の平景隆が城で自害した。島の人々は殺され、あるいは捕らえられた。さらに肥前の松浦の沿岸も荒らされた。そして10月20日、連合軍は博多湾の西部、今津や百道原のあたりに上陸した。
迎え撃ったのは、大宰府の少弐景資を大将とする九州の御家人たちだった。日本の武士の戦い方は、名乗りを上げて一騎ずつ駆け出し、敵と弓矢を射交わすものだった。元軍は太鼓や銅鑼の合図で集団のまま進み、短い弓で毒を塗った矢を雨のように射かけ、「てつはう」と呼ばれる、火薬を詰めた陶器の玉を投げつけて、炸裂の音と煙で馬を驚かせた。このとき戦った肥後の御家人、竹崎季長は、わずか5騎の手勢で先駆けをして、馬を射られて落馬した。その場面は、のちに彼が描かせた『蒙古襲来絵詞』に描かれていて、季長の頭上でてつはうが炸裂している。

戦いは赤坂、鳥飼潟など博多の各地で一日続いた。元軍の副司令劉復亨は矢を受けて負傷した。夕方、日本軍は大宰府の手前の水城まで退いた。筥崎宮は焼かれた。ところが、元軍は博多に陣を張ることなく、夜には船に引き上げた。そして翌朝、博多湾にはもう船の姿がなかった。
元軍はなぜ去ったのか。朝鮮の歴史書『高麗史』は、元軍の将たちが軍議で撤退を決め、その夜、大風雨に遭って多くの軍船が岩にぶつかって壊れた、と記している。かつては、この嵐こそ「神風」で、元軍は嵐で全滅したと考えられてきた。しかし、旧暦10月、いまの11月下旬に大きな台風が来ることは珍しい。そのため、嵐はあったとしても季節外れの強風程度で、元軍はもともと長く戦うつもりがなく、日本の抵抗の強さを確かめて自ら引き上げた、という見方もある。最初から威力偵察を目的にしていたとする説、矢が尽きたためとする説、高麗の兵が長期戦を嫌ったとする説もあり、いまも決着していない。『高麗史』は、この遠征で帰らなかった者が1万3500人あまりにのぼったと記している。
翌1275年、フビライは再び使者の杜世忠を日本に送った。時宗は使者たちを鎌倉に連れてこさせ、龍ノ口で斬った。もはや交渉の余地はないという意思表示だった。幕府は九州の守りを固める異国警固番役を強化し、1276年からは博多湾の海岸に、高さ2メートルほどの石の壁を、20キロにわたって築かせた。いまも元寇防塁として、その一部が残っている。
1279年、元は南宋を滅ぼした。そして1281年、フビライは江南の兵を加えた、はるかに大きな軍を日本に送る。弘安の役である。二度にわたる元寇は、日本に新しい国を得させたわけではなかった。外国との戦いでは、恩賞として分け与える土地が手に入らない。

竹崎季長は、文永の役のあと、恩賞が与えられないことに納得できず、1275年、自ら鎌倉まで出かけて、幕府の御恩奉行の安達泰盛に直訴した。季長は肥後の海東郷の地頭に任じられた。『蒙古襲来絵詞』は、彼がその恩に感謝し、自分の戦いぶりを伝えるために描かせたものとされる。恩賞に不満を持つ御家人は季長だけではなかった。この不満は、やがて鎌倉幕府を揺るがしていく。
『蒙古襲来絵詞』のてつはうの場面には、後の時代に描き足された部分があるのではないかという指摘がある。だが、長崎県の鷹島の沖の海底からは、弘安の役で沈んだ元軍の船とともに、陶器の球に鉄片と火薬を詰めたてつはうが実際に見つかっている。絵に描かれた武器は、確かに存在した。