概要
元と高麗の900隻、3万が対馬と壱岐を襲い、博多に上陸した。てつはう、集団戦、毒矢。武士は一騎討ちの名乗りをして囲まれた。一日戦って、元軍は船に戻り、翌朝いなかった。嵐で帰ったのか、最初から威力偵察だったのか、いまも議論がある。
場所
33.59°N 130.40°E · 日本・福岡県
関わった人(2)
北条時宗AD1251年–AD1284年 · 執権フビライ・ハンAD1215年–AD1294年 · 送った本文
1266年、フビライの国書。「日本国王に」。高麗経由。 「兵を用いるのは誰が好むだろうか」。 幕府は返事をしなかった。朝廷は返書を書いて、幕府が止めた。 1268年、1269年、1271年、1272年。使者。 1274年10月3日、合浦。 東征都元帥忻都、右副元帥洪茶丘、左副元帥劉復亨。高麗の金方慶。 900隻。蒙漢軍2万、高麗軍8000、水手6700。 10月5日、対馬。宗資国が80騎で。死んだ。 10月14日、壱岐。平景隆。 10月20日、博多。早良郡の百道原と今津。 少弐景資、大友頼泰。 「てつはう」。「集団で進み、太鼓と銅鑼で」。「短い弓に毒」。 竹崎季長。5騎。『蒙古襲来絵詞』。「先駆けを」。馬が矢に当たった。てつはうが爆発している絵。 赤坂、鳥飼潟。 劉復亨が矢に当たった。 夕方。日本軍は水城まで退いた。 元軍は船に戻った。 翌朝、いなかった。 『高麗史』。「夜、大風雨。戦艦が岩に触れて多く壊れた」。 「威力偵察」。「一日で目的を果たして帰った」。「日本の抵抗が予想より強かった」。「矢が尽きた」。 どれか。 高麗は1万3500人が帰らなかった、と。 1275年、杜世忠が使者に来た。龍ノ口で斬った。 1276年、異国警固番役。石築地。博多湾20キロ。 1279年、南宋が滅んだ。 1281年。 竹崎季長は鎌倉まで行って恩賞を求め、地頭になった。絵巻を作らせた。 1293年頃。 絵巻の「てつはう」は、後で描き足された、と言う人がいる。 2011年、鷹島の海底から、てつはうが出た。陶器の球。中に鉄片と火薬。 本当だった。