後醍醐天皇
概要
即位した時から幕府を倒すつもりだった。二度失敗して隠岐に流され、脱出して倒した。自分で政治を執り、失敗し、吉野の山に逃げて、そこで死んだ。「玉骨はたとひ南山の苔に埋むるとも、魂魄は常に北闕の天を望まん」。
所属
日本関わったできごと(1)
建武の新政AD1333年 · 天皇本文
後醍醐天皇は1288年、後宇多天皇の第二皇子として生まれた。名は尊治。当時の皇室は二つの系統に分かれていた。後深草天皇に始まる持明院統と、亀山天皇に始まる大覚寺統である。両統はどちらが皇位を継ぐかで争い、鎌倉幕府の仲裁で、交互に天皇を出すことになっていた。両統迭立である。皇位の行方は、事実上、幕府が握っていた。

1318年、尊治は31歳で即位した。大覚寺統の正統な後継は、早く亡くなった兄の後二条天皇の子、邦良親王とされていた。後醍醐は邦良が成長するまでの中継ぎの天皇であり、自分の子に位を伝えることは許されていなかった。この立場が、後醍醐の生涯を決めた。自分の子孫に皇位を伝えるには、両統迭立を決めている幕府そのものを倒すほかない。
後醍醐は学問を好み、宋から伝わった新しい儒学、朱子学を学んだ。君臣の分を正す大義名分の考えは、武士が天皇の位を左右する世を誤りとする彼の思いを支えた。理想としたのは、10世紀の醍醐天皇と村上天皇が親政を行ったとされる延喜・天暦の治だった。後醍醐という名は、醍醐天皇にならって、天皇自身が生前に選んでいた追号である。1321年、父後宇多上皇の院政を止めて親政を始め、朝廷の記録所を再び置いて、訴訟を自ら裁いた。

1324年、倒幕の計画が漏れた。側近の日野資朝、日野俊基らが、身分を問わず無礼講の宴を装って同志を集めていたのを、幕府の京都の出先機関である六波羅探題が察知したのである。正中の変である。資朝は佐渡に流されたが、天皇は関わりを否定して罪を免れた。1326年、邦良親王が亡くなると、幕府は持明院統の量仁親王を皇太子に立てた。後醍醐の譲位を迫る声は強まった。
1331年、再び倒幕の計画が発覚した。今度は、天皇の側近の吉田定房が、天皇の身を案じて幕府に密告したと伝えられる。元弘の変である。後醍醐は三種の神器を携えて京を脱出し、山城の笠置山に籠もった。河内では楠木正成が赤坂城で兵を挙げた。だが笠置は幕府の大軍に落とされ、天皇は捕らえられた。幕府は量仁親王を光厳天皇として即位させ、1332年、後醍醐を隠岐に流した。

それでも火は消えなかった。後醍醐の皇子の護良親王は吉野で、楠木正成は千早城で幕府の大軍を引きつけて戦い続け、各地で幕府に不満を持つ武士たちが動き始めた。1333年閏2月、後醍醐は隠岐を脱出し、伯耆の名和長年に迎えられて船上山に立て籠もった。幕府が送った有力な御家人の足利高氏(のちの足利尊氏)が天皇の側に寝返り、5月に京の六波羅探題を攻め落とした。同じ月、関東では新田義貞が鎌倉を攻め、北条一族は自害して鎌倉幕府の成立は滅んだ。6月、後醍醐は京に戻った。
翌1334年、元号は建武と改められた(建武の新政)。建武は、中国の後漢を再興した光武帝の年号である。後醍醐は摂政も関白も置かず、天皇がすべてを直接決める政治を目指した。土地の所有はすべて天皇の綸旨で確認されることになり、訴えが京に殺到した。恩賞の分配は公家や天皇の側近に厚く、命がけで戦った武士たちに薄いと受け止められた。内裏を建てるための負担も重くのしかかった。京の鴨川の河原には、この頃都にはやるもの、夜討ち、強盗、にせの綸旨、と新政の混乱を皮肉る落書が掲げられた。

1335年、北条氏の残党が鎌倉を奪った中先代の乱を鎮めに下った足利尊氏は、そのまま鎌倉にとどまり、新政に背いた。1336年、尊氏は九州から攻め上り、湊川の戦いで楠木正成を討って京に入った。尊氏は持明院統の光明天皇を立て、後醍醐は和睦に応じていったん神器を渡した。だがその年の12月、後醍醐は京を抜け出して大和の吉野に移り、渡した神器は偽物だと宣言した。こうして京の北朝と吉野の南朝が並び立つ、南北朝の時代が始まった。
吉野の後醍醐は、皇子たちを各地に送って勢力の回復を図ったが、北畠顕家や新田義貞が相次いで戦死し、形勢は厳しくなるばかりだった。1339年8月16日(旧暦)、後醍醐は吉野で死んだ。52歳。死の前日、皇位を義良親王(後村上天皇)に譲っていた。『太平記』は、天皇が左手に法華経の第五巻を、右手に剣を持ち、たとえ骨は南の山の苔に埋もれても、魂は常に北の都の空を望んでいる、と言い残して息絶えたと伝える。如意輪寺の裏山にある陵は、天皇の陵としては珍しく、京のある北を向いているとされる。

後醍醐の評価は、時代によって大きく揺れてきた。足利の時代に書かれた『太平記』は、後醍醐の情熱と行動力を描きながら、新政の失敗については天皇の徳の足りなさにも筆を向けている。江戸時代には水戸藩の『大日本史』が南朝を正統とし、幕末の尊王論の中で後醍醐と楠木正成は理想の君臣とされた。1911年には、教科書が南北朝を並べて書いたことが国会で問題になり、政府は南朝を正統と定めた。南北朝正閏問題である。以後、尊氏は逆賊とされ、1934年には、商工大臣の中島久万吉が、尊氏を評価する昔の随筆を攻撃されて辞任に追い込まれた。戦後はそうした評価から離れて、武家の世を覆そうとした異色の天皇として、その政治や人物が改めて研究されている。