シャクシャインの戦い
概要
交易の条件をめぐるアイヌの蜂起。和睦の席で首長が謀殺され、以後アイヌは松前藩に従属していく。
場所
42.34°N 142.37°E · 日本・北海道日高地方
関わった人(1)
シャクシャイン?–AD1669年 · 当人本文
17世紀、アイヌの人々が暮らす大地(アイヌモシリ)の南の端では、松前藩がアイヌとの交易を独占していた。松前藩の土地では米がほとんど取れない。そこで藩は家臣に米の知行を与えるかわりに、特定の場所でアイヌと取引する権利を与えた。家臣は米や酒、鉄器を持って船で出かけ、干鮭や毛皮、熊の胆と交換した。交易の条件を決めるのは、事実上、和人の側だった。
松前藩がこの独占を持てたのは、1604年に徳川家康から与えられた黒印状による。アイヌとの交易は松前氏を通さねばならず、無断でアイヌと取引する者は罰すると定められた。ただし同じ文書は、アイヌがどこへ行くのも自由だとも書いている。独占はあくまで和人の側の取り決めで、アイヌを支配する権利まで与えたものではなかった。

その交換の率が、一方的に不利に変えられていった。米俵の中身が減らされ、同じ量の干鮭に対して渡る米が以前の半分ほどになった、と伝えられる。和人の砂金掘りや鷹を捕る者が奥地に入り込み、川の鮭を勝手に取ることも増えていた。
アイヌの側にも争いがあった。日高の静内川(シブチャリ)流域の漁や猟の場をめぐって、シャクシャインが率いるメナシクルの集団と、オニビシが率いるシュムクルの集団が、1640年代から対立していた。1668年、シャクシャインの側がオニビシを討つ。シュムクルの側は松前藩に助けを求め、その使者が帰途に疱瘡で死んだ。これが「松前藩に毒殺された」と伝わり、怒りの向かう先が和人に変わった。

和人とアイヌの衝突は、これが初めてではない。1457年には首長コシャマインが、小刀の出来と値をめぐる口論から和人の鍛冶屋がアイヌの少年を殺した事件をきっかけに、渡島半島の和人の館を次々と落とした。その後も16世紀にかけて、戦いと和睦がくり返されている。和睦の席で相手の首長を討つ手口も、この時代から見られた。
1669年6月、シャクシャインは東西のアイヌに呼びかけ、各地で一斉に和人の商船や鷹待ちを襲わせた。殺された和人は270人あまりとされる。対立していた集団の一部も加わり、蜂起は太平洋岸から日本海側まで広がった。

幕府は事態を重く見て、津軽藩などに出兵の準備を命じ、松前藩には一族の松前泰広を送り込んだ。シャクシャインの軍は南へ攻め上ったが、国縫(くんぬい)で鉄砲を備えた藩兵に阻まれ、シブチャリへ退いた。毒矢と弓では、鉄砲の前に押し返されたことになる。
戦いが長引くと、藩は和睦を持ちかけた。1669年10月、新冠のピポクに設けられた和睦の席で、シャクシャインは酒を勧められた後に討たれた。砦(チャシ)は焼かれ、残る首長たちも服従を誓わされた。翌年以降も各地で鎮圧が続き、アイヌは藩への服従を誓う起請文を差し出させられた。
決着は戦場ではなく、和睦の席でついた。その後、交易はさらに和人の思うままになる。18世紀には、和人の商人が藩に運上金を払って交易と漁場の経営を請け負う「場所請負制」が広まり、アイヌは漁場の労働力として使われるようになった。1789年には国後・目梨でも、請負商人の扱いに耐えかねたアイヌが蜂起している。
明治以降、北海道の開拓が進むと、アイヌの土地と暮らしはさらに奪われた(北海道旧土人保護法)。シャクシャインの名は、静内の丘に立つ像とともに、和人の支配に抵抗した人として語り継がれている。
かつては「シャクシャインの乱」と呼ばれた。藩に背いた反乱という見方である。近年は、アイヌが自分たちの暮らしを守るために和人と戦った出来事として「シャクシャインの戦い」と呼ぶことが多い。2019年にはアイヌを先住民族と明記した法律が施行され、呼び名の選び方にも、誰の側から歴史を語るのかという問いが込められるようになった。