鎌倉幕府の成立
概要
朝廷から離れた場所に武士の政権が置かれた。以後700年近く、実権は武士が握る。
場所
35.32°N 139.55°E · 日本・神奈川県
関わった人(1)
源頼朝AD1147年–AD1199年 · 当人本文
1180年の夏、伊豆に流されていた源頼朝が兵を挙げた。父の義朝が平治の乱で敗れて殺されてから20年、頼朝は13歳で伊豆へ送られ、30代の半ばになっていた。京都では平清盛の一門が朝廷の要職を占め(平氏政権)、各地の武士の中には平氏への不満が積もっていた。以仁王が平氏を討てと呼びかける命令を発したのが、挙兵のきっかけになった。
最初の戦いは惨敗だった。相模の石橋山で平氏方の軍に敗れ、頼朝は山中を逃げ回った末、海を渡って房総半島に逃れた。そこで千葉氏や上総氏といった東国の有力な武士が味方に付き、軍勢は一気にふくれ上がった。その年の10月、頼朝は鎌倉に入った。

なぜ鎌倉だったのか。鎌倉は頼朝の祖先の源頼義が八幡神を祀った土地で、父の義朝も館を構えていた。源氏にとってゆかりの地である。三方を山に、一方を海に囲まれ、外から入るには切通しと呼ばれる狭い道を通るしかない。守りやすい地形だった。そして何より、京都から遠かった。平氏は京都で朝廷に深く入り込み、貴族と同じように振る舞って、地方の武士の支持を失った。頼朝はその轍を踏まず、東国の武士たちのそばに本拠を置いた。
その年の11月、頼朝は御家人を統率する役所として侍所を置いた。町づくりも進められた。1182年には、海辺から鶴岡八幡宮へまっすぐに延びる若宮大路が造られた。妻の政子の安産を祈ってのことと伝えられる。八幡宮を中心に、その周りに御所や御家人の屋敷が並ぶ、武士の都の姿ができていった。平氏との戦いは弟の範頼と源義経に任せ、自らは鎌倉を動かずに東国の支配を固めた。1183年には、東国の支配権を朝廷に認めさせている。翌年には、政務を扱う公文所(のちの政所)と、訴訟を扱う問注所を置いた。1185年、壇ノ浦の戦いで平氏は滅んだ。その年の暮れ、頼朝は義経を追討する名目で、諸国に守護、荘園や公領に地頭を置くことを朝廷に認めさせた(守護・地頭の設置)。1189年には義経をかくまった奥州藤原氏を滅ぼし、国内に頼朝に対抗できる武力は無くなった。

1192年、頼朝は征夷大将軍に任じられた。頼朝の任官を拒んでいたとされる後白河法皇が、その年の春に亡くなった直後のことだった。近年、頼朝が望んだのは「大将軍」という地位で、朝廷がいくつかの候補の中から征夷大将軍を選んだことを示す記録が見つかっている。この職名そのものに、頼朝が強いこだわりを持っていたわけではなかったらしい。
幕府の仕組みの土台は、将軍と御家人の関係だった。将軍は御家人の先祖代々の土地の権利を保証し、手柄を立てれば新しい土地を与える。これが御恩である。御家人は、いざというときには一族を率いて戦い、平時には京都や鎌倉の警備を務める。これが奉公である。土地を介した、契約に近い主従の関係だった。

成立の年には諸説ある。征夷大将軍に任じられた1192年のほか、鎌倉に入って侍所を置いた1180年、東国の支配を認められた1183年、守護・地頭を置いた1185年などを採る説がある。将軍の職名よりも、実際に武士を束ね、土地の支配に関わる権限を手にした時点を重く見る考え方が強まり、教科書の記述も1185年を重く扱うように変わってきた。「いい国作ろう鎌倉幕府」という年号の覚え方は、それで揺らいだことになる。
鎌倉に何かあれば御家人はすぐに駆けつける、という関係は、のちに「いざ鎌倉」という言葉で語られるようになった。この言葉は室町時代の謡曲から広まったものだが、鎌倉と御家人の結びつきをよく表している。

頼朝は1199年に53歳で亡くなった。落馬がもとだったとも伝えられるが、幕府の記録である『吾妻鏡』はその前後の記事を欠いていて、はっきりしない。息子の頼家と実朝は相次いで殺され、源氏の将軍は三代で絶えた。実権を握ったのは、頼朝の妻政子の実家である北条氏だった。北条氏は執権として幕府を動かし、将軍には京都から公家や皇族を迎えた。
1221年、後鳥羽上皇が幕府を倒そうとして兵を挙げた(承久の乱)。政子は御家人たちを前に、頼朝の御恩を説いて結束を呼びかけたと伝えられる。幕府軍は京都を攻め落とし、上皇を隠岐に流した。これ以後、幕府は京都に六波羅探題を置いて朝廷を見張り、皇位の継承にも口を出すようになる。1232年には、武士のための最初の法典である御成敗式目が定められた。

鎌倉の幕府は1333年に滅んだが、武士の政権はその後も室町、江戸と形を変えて続いた。1867年の大政奉還まで、700年近く、政治の実権は武士が握り続けた。朝廷は滅ぼされることなく、官位を授け、将軍を任じる権威として残った。力を持つ者と、それに正しさを与える者とが分かれて並び立つ形は、この鎌倉で始まった。