できごと

三方ヶ原の戦い

Battle of Mikatagahara
AD1573年1月25日(元亀3年12月22日)
重要度 4
三方ヶ原の戦いに関わる図版:Battle of Mikatagahara
Battle of Mikatagahara Wikimedia Commons Utagawa Yoshitora · Public domain

概要

上洛する武田信玄2万7000が浜松城を素通りした。31歳の家康が1万1000で追って出て、三方ヶ原の台地で待っていた信玄に魚鱗の陣で潰された。家康は浜松に逃げ帰り、馬上で脱糞したと伝え、その顔を絵に描かせて戒めにした(しかみ像。ただし近年の研究は疑う)。信玄は4か月後、病死した。

場所

浜松
34.71°N 137.73°E · 静岡県浜松市

関わった人(2)

武田信玄AD1521年12月1日–AD1573年5月13日 · 待っていた徳川家康AD1543年–AD1616年 · 逃げ帰った

本文

1572年(元亀3年)の秋、甲斐の武田信玄は大軍を率いて西へ動き出した。将軍足利義昭が織田信長を囲む諸勢力を組み立てつつあり、信玄はその最も強い一角だった。武田軍の数は2万5000とも3万ともいわれ、北条からの援軍も加わっていた。進む道の先には、信長と同盟を結ぶ徳川家康の遠江と三河がある。武田軍は遠江の諸城を次々に落とし、12月には天竜川ぞいの要地、二俣城を開城させた。

家康は浜松城にいた。数えで31歳、手元の兵は8000ほどで、信長が送った援軍3000を合わせても1万1000にすぎない。12月22日、浜松城に迫ると見えた武田軍は、城を攻めずに北の三方ヶ原の台地へ上がり、西へ進んでいった。城を無視して通り過ぎる動きだった。家臣の多くは城に籠もることを勧めたが、家康は打って出ることを選んだ。武田軍が台地の西の端から祝田の坂を下りるところを、後ろから討てると考えたとされる。自分の領地を踏みにじられて黙って見送れば、遠江の国衆の心も離れる、という判断もあったと考えられている。

Japan Tokai topographic map
Wikimedia Commons Soren Bradley · CC BY 4.0

家康は、この2年前に本拠を三河の岡崎から遠江の浜松へ移したばかりだった。1570年の姉川の戦いでは信長とともに浅井・朝倉の軍と戦い、同盟者としての務めを果たしている。だが信長は、このとき畿内や近江で包囲網の諸勢力に手を取られ、大軍を送る余裕が無かった。家康は、自分の力で信玄に向き合うしかなかった。一方の信玄は、城攻めで時を費やすより、家康を城の外へ誘い出して野戦で叩くほうが早いと見ていたとされる。浜松城を素通りしたのは、その誘いだったという見方が強い。

だが信玄は、坂を下りきってはいなかった。台地の上で向きを変え、待ち構えていた。夕方近く、両軍は台地の上でぶつかる。武田軍は前に厚い魚鱗の陣、数で劣る徳川軍は横に広げた鶴翼の陣だったと伝えられる。もともと少ない兵を横に広げれば、一か所あたりは薄くなる。戦いは二時間ほどで決まり、徳川軍は崩れた。織田の援軍の将平手汎秀も討ち死にした。徳川方の死者は1000を超え、武田方の損害はずっと少なかったとされる。

Japan Enshu sea location map
Wikimedia Commons Soren Bradley · CC BY 4.0

家康は追われながら浜松城へ逃げ帰った。家臣の夏目吉信が家康の名を名乗って敵に突っ込み、身代わりに討たれたと伝えられる。城に戻った家康が門を開け放ち、かがり火を焚かせたので、武田方は伏兵を疑って攻めなかった、という話もあるが、これは中国の兵法の「空城の計」になぞらえた後世の語りの色が濃い。逃げる途中で馬の上で脱糞し、城で家臣に笑われると「これは焼き味噌だ」と言い張った、という話も、江戸時代の軍記に見えるもので、事実かどうかは分からない。

敗戦の直後に家康が自分のやつれた顔を絵師に描かせ、生涯の戒めにした、と伝えられる絵がある。徳川美術館の「しかみ像」である。ただし近年の研究では、この絵を三方ヶ原と結びつける話は近代になって広まったもので、もとの由来は別だった可能性が高いとされている。

三方原古戦場(静岡県浜松市中央区根洗町)
三方原古戦場(静岡県浜松市中央区根洗町)Wikimedia Commons Saigen Jiro · CC0

信玄は浜松を攻めずに年を越し、翌1573年の初めに三河の野田城を落とした。しかし病が重くなって軍を返し、4月、信濃へ戻る途中で死んだ。数えで53歳。死を3年隠せと遺言したと伝えられる。包囲網の要を失った義昭はその年のうちに京を追われ、信長の反撃が始まる。

三方ヶ原は、家康の生涯で最も手痛い敗北だった。だが、この敗北で家康が信長を裏切らなかったことは、二人の同盟を固くした。2年後の長篠の戦いでは、信玄の跡を継いだ武田勝頼が織田・徳川の連合軍に大敗する。家康はその後40年あまり生き、天下を手にした。

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