概要
上洛する武田信玄2万7000が浜松城を素通りした。31歳の家康が1万1000で追って出て、三方ヶ原の台地で待っていた信玄に魚鱗の陣で潰された。家康は浜松に逃げ帰り、馬上で脱糞したと伝え、その顔を絵に描かせて戒めにした(しかみ像。ただし近年の研究は疑う)。信玄は4か月後、病死した。
場所
浜松
34.71°N 137.73°E · 静岡県浜松市
34.71°N 137.73°E · 静岡県浜松市
関わった人(2)
武田信玄AD1521年12月1日–AD1573年5月13日 · 待っていた徳川家康AD1543年–AD1616年 · 逃げ帰った本文
1572年10月、信玄は2万5000(3万とも)で甲府を出た。上洛。将軍義昭が信長包囲網の一つとして呼んだ。遠江の徳川領を通る。二俣城を落とした。
12月22日、信玄は浜松城の北を素通りして、西へ向かった。三方ヶ原の台地を越えて、祝田の坂を下りる道。家康は31歳、浜松城に8000、信長の援軍3000。家臣は「城に籠もれ」と言い、家康は出た。「自分の庭を踏まれて黙っていられるか」と言った、と後の史料。信玄が坂を下りる途中を後ろから襲うつもりだった。
台地の上で、信玄は待っていた。魚鱗の陣(前が尖った密集)。徳川は鶴翼(横に広い)。1万1000と2万5000で鶴翼は、薄い。2時間で崩れた。徳川の死者1000〜2000。武田は200。
家康は浜松へ逃げた。家臣が身代わりに死んだ。夏目吉信。城に戻ると、門を開けて篝火を焚いた(空城の計、後の話)。馬の鞍に糞をしていて、家臣に「これは焼き味噌だ」と言った、という話は江戸時代の講談。しかみ像(浜松から戻った家康が、自分の顔を絵師に描かせて生涯戒めにした)は、近年の研究では、江戸時代後期の絵で、由来の話は明治以後に作られた、とされる。
信玄は三河に入り、野田城を落とし、1573年4月、病気で兵を返し、信濃の駒場で死んだ。53歳。「3年隠せ」。家康は生き延びて、45年後、天下を取った。
家康は、三方ヶ原を、生涯で一番の負けとして覚えていた。