徳川吉宗
概要
紀州藩主の四男。兄たちが続けて死んで藩主、7代家継が8歳で死んで将軍。享保の改革。倹約、上米、足高、目安箱、小石川養生所、公事方御定書、町火消、サツマイモ、漢訳洋書の解禁、大岡忠相。米の値段に生涯悩んだ「米将軍」。身長180センチ、鷹狩り。「暴れん坊将軍」は作り話。
関わったできごと(1)
享保の改革1716年 · 将軍本文
1684年、紀州和歌山で、紀州藩主徳川光貞の四男として生まれた。紀州徳川家は、家康の十男頼宣に始まる御三家の一つである。母は身分の低い女性で、城の湯殿に仕えていたとも言われる。幼名は源六。四男で母の身分も低い吉宗は、本来なら藩主にも将軍にもなるはずのない立場だった。

1697年、5代将軍徳川綱吉に拝謁したとき、兄の頼職とともに越前に領地を与えられ、葛野3万石の大名になった。小さな大名として一生を終えるかに見えた。ところが1705年、紀州藩を継いでいた長兄の綱教が亡くなり、続いて父の光貞、さらに後を継いだ三兄の頼職と、わずか数か月の間に相次いで世を去った。22歳の吉宗に、紀州55万石の藩主の座が回ってきた。
紀州藩の財政は苦しかった。吉宗は自ら木綿の着物を着て倹約を率先し、藩士の数を減らし、領内の訴えを聞くために城の門前に投書の箱を置いた。この紀州での経験が、のちの将軍としての政治の下敷きになる。

1716年、7代将軍の家継が8歳で亡くなった。2代秀忠から続いてきた将軍家の血筋は、ここで絶えた。後継ぎの候補は御三家の当主たちで、家康に近い血筋と年齢と実績から、33歳の紀州の吉宗が選ばれた。6代家宣の正室天英院の後押しがあったとされる。御三家から将軍家に入った初めての将軍だった。
将軍となった吉宗は、前の時代に政治を動かしていた新井白石らを退け、家康の時代の政治に戻ることを掲げた(前の時代については正徳の治)。そして約30年にわたって、享保の改革と呼ばれる改革を進めた。

最大の課題は、幕府の財政だった。年貢の米の収入は伸びず、出費はかさみ、旗本や御家人に払う給料にも事欠く有様だった。吉宗は徹底した倹約令を出し、自らも食事を一日2回に減らし、木綿の服を着たと伝えられる。1722年には、大名に1万石につき100石の米を幕府に差し出させる上米の制を始めた。その代わりに、参勤交代で江戸にいる期間を1年から半年に縮めた。将軍が大名に頭を下げるような策で、吉宗自身も恥を忍んでのことだと述べたという。新田の開発を進め、年貢の取り方を、毎年の出来を見て決める方法から、数年の平均で一定にする定免法に改めて、収入を安定させた。
人材の登用にも工夫をこらした。役職ごとに必要な石高を定め、家の石高の低い者がその役に就くときは、在職中だけ不足分を足して支給する足高の制を1723年に設けた。家柄が低くても能力のある者を、財政の負担を増やさずに重い役に就けるための仕組みである。将軍になった翌年、伊勢の山田奉行だった大岡忠相を江戸の町奉行に抜擢したのも、家柄にとらわれない登用の一つだった。
庶民の声を聞く仕組みも作った。1721年、評定所の門前に目安箱を置き、誰でも意見を投書できるようにした。箱は将軍の前で開けられ、吉宗が自ら目を通したという。町医者の小川笙船が、貧しい病人のための施療所を作ってほしいと投書すると、翌年、小石川養生所が開かれた。
江戸の町は、たびたび大火に見舞われていた。吉宗と大岡忠相は、町人による消防組織を整え、1720年には「いろは」47組の町火消ができた(江戸の町火消)。法の整備も進め、それまでの判例や決まりをまとめて、裁判の基準となる公事方御定書を1742年に完成させた。
実用の学問にも関心を寄せた。1720年、キリスト教に関わらない漢訳の洋書の輸入を許し、青木昆陽らにオランダ語を学ばせた。これがのちの蘭学の芽になる。飢饉に備えて、昆陽にサツマイモの栽培を研究させ、朝鮮人参やサトウキビの国内での栽培も試みさせた。1728年には、ベトナムから象を取り寄せ、長崎から江戸まで歩かせた。京都では天皇がこの象を見物している。
だが、吉宗を最後まで悩ませたのは米の値段だった。年貢を増やし、新田を開けば、米の量は増える。ところが米が増えれば値が下がる。幕府や武士の収入は米で受け取るものなので、米の値が下がれば、実質の収入は減ってしまう。一方で、米以外の品物の値は下がらなかった。吉宗は米の値を支えるために、商人に米を買い上げさせ、1730年には大坂の堂島の米市場を公認した(堂島の米市場)。米を実物ではなく帳簿の上で売り買いするこの市場は、世界で最も早い時期の先物取引の市場の一つとされる。こうして米の値に一生を振り回された吉宗は、「米将軍」と呼ばれた。

1732年には、西日本でウンカの大発生による凶作が起き、多くの餓死者が出た。翌年、米の値が急に上がった江戸では、米問屋が打ちこわしに遭った。江戸で初めての大規模な打ちこわしである(享保の飢饉と打ちこわし)。年貢の取り立ての強化は、農民の負担を重くし、各地で一揆も増えた。改革は幕府の財政をいったん立て直したが、その重荷を背負ったのは百姓たちでもあった。
1745年、吉宗は将軍職を長男の家重に譲った。家重は言葉が不自由だったとされ、吉宗は大御所として政治を後見し続けた。次男と四男には田安家と一橋家を立てさせ、御三家と並んで将軍の跡継ぎを出せる家とした。のちに清水家を加えて御三卿と呼ばれる。1751年、江戸城で亡くなった。数えで68歳だった。
体は大きく、身長は6尺(約180センチ)ほどあったと伝えられる。色が黒く、力が強く、鷹狩りを好み、綱吉の時代に途絶えていた鷹狩りを復活させた。飛鳥山や隅田川の堤に桜を植えさせ、江戸の人々が花見を楽しめる場所を作ったのも吉宗である。
テレビ時代劇の「暴れん坊将軍」では、吉宗が町人に化けて江戸の町を歩き、悪人を懲らしめる。これは1978年から放送された作り話である。ただ、目安箱で庶民の声を聞き、町火消を整え、桜の名所を作った将軍が、江戸の庶民に近い存在として記憶されたことには、それなりの理由があった。