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Person / 人

徳川家光

Tokugawa Iemitsu
AD1604年8月12日 – AD1651年6月8日(享年46)
江戸幕府重要度 5

概要

秀忠の次男。母は江。弟忠長が愛され、乳母の春日局が駿府の家康に訴えて、家光が跡継ぎになった。「余は生まれながらの将軍である」。参勤交代、鎖国、島原の乱、忠長の自害、日光東照宮の造替。将軍の権力が固まった。病弱で、男色で、春日局が死ぬまで側にいた。48歳。

関わったできごと(2)

参勤交代の制度化AD1635年(寛永12年) · 定めた鎖国の完成AD1639年 · 将軍

本文

1604年、江戸城。秀忠の次男(長男は早世)。母は江。竹千代。乳母は斎藤利三の娘のお福(春日局)。

弟の国松(忠長)が生まれ、江が国松を愛し、秀忠も国松を愛した、と伝える。竹千代は病弱で、どもった。家臣は国松に集まった。1615年頃、お福が駿府へ行って家康に訴え、家康が江戸に来て、竹千代を上座に、国松を下座に座らせて、跡継ぎを示した。作り話の可能性があるが、家光は生涯、春日局を離さなかった。

1623年、19歳で将軍。1632年、秀忠が死んだ。家光は「余は生まれながらの将軍である。祖父や父のように大名と共に戦ったことはない。大名は余の家臣である。不満なら国に帰って戦の支度をせよ」と大名に言った、と『武野燭談』。作り話だろうが、その通りにした。

1633年、忠長を改易して、翌年、自害させた。1634年、30万の軍勢を連れて上洛した。1635年、武家諸法度に参勤交代。老中、若年寄、大目付、奉行、評定所。幕府の機構。1637年、島原の乱。1639年、ポルトガル船の来航を禁じた(鎖国の完成)。1641年、オランダを出島へ。1636年、日光東照宮の造替(それまでの簡素な社を、いまの豪華なものに)。「東照大権現」。家康を神にした。

男色。女に興味がなく、春日局が大奥を作って女を集めた。1641年、家綱が生まれた。

病弱で、鬱で、何度も倒れた。沢庵と親しく、柳生宗矩に剣を習った。1651年4月20日、江戸城で死んだ。48歳。堀田正盛ら5人が殉死した。日光の輪王寺に、家康のそばに葬られた。

家光で、幕府の形ができた。