徳川家光
概要
秀忠の次男。母は江。弟忠長が愛され、乳母の春日局が駿府の家康に訴えて、家光が跡継ぎになった。「余は生まれながらの将軍である」。参勤交代、鎖国、島原の乱、忠長の自害、日光東照宮の造替。将軍の権力が固まった。病弱で、男色で、春日局が死ぬまで側にいた。48歳。
関わったできごと(2)
参勤交代の制度化AD1635年(寛永12年) · 定めた鎖国の完成AD1639年 · 将軍本文
1604年、江戸城で、2代将軍となる徳川秀忠の子として生まれた。兄が早くに亡くなっていたため、生まれながらの跡取りとして竹千代と名づけられた。母は江で、浅井長政と織田信長の妹お市の間に生まれた三姉妹の末娘である。祖父の徳川家康は、前年に征夷大将軍になったばかりだった。

乳母には、明智光秀の重臣斎藤利三の娘で、夫と別れて奉公に出たお福が選ばれた。のちの春日局である。
2年後、弟の国千代(のちの忠長)が生まれた。伝えられるところでは、病弱で口数の少ない竹千代より、才気にあふれ見目のよい国千代を、両親はかわいがった。家臣たちの間にも、跡継ぎは国千代になるのではないかと見る者が出てきた。危機を感じたお福は、伊勢参りを口実に江戸を出て、駿府に隠居していた家康に直訴した。家康は江戸に来て、竹千代を上座に、国千代を下座に座らせ、菓子もまず竹千代に与えて、長幼の順を誰の目にも示した、という。この話は後の記録に見えるもので、どこまで事実かは分からない。ただ、家光が生涯お福を離さず、深く信頼し続けたことは確かである。

1623年、20歳で3代将軍になった。だが、父の秀忠は大御所として江戸城の西の丸に移り、政治の実権を握り続けた。家光が本当に自分の手で政治を動かせるようになったのは、1632年に秀忠が亡くなってからである。
秀忠の死の後、家光は大名たちを江戸城に集めて、こう言ったと伝えられる。祖父や父は、諸大名の力を借りて天下を取った。だから大名を同輩として遇した。だが自分は生まれながらの将軍である。これからは大名を家臣として扱う。不服な者は国に帰って戦の支度をせよ、と。これも後世の記録に見える話だが、家光の政治はまさにその言葉の通りに進んだ。

最初に示したのは、身内にも容赦しないという姿勢だった。1632年、肥後の大大名加藤家を取り潰した。同じ年、弟の忠長も、乱行を理由に領地の駿河などを取り上げられ、高崎に幽閉された。忠長は翌1633年の暮れ、幽閉先で自害した。かつて跡継ぎの座を争いかけた弟が、こうして消えた。1634年には、30万を超える軍勢を引き連れて上洛し、朝廷と西国の大名たちに将軍の力を見せつけた。
幕府の仕組みが形になったのも、家光の時代である。老中、若年寄、大目付、寺社・町・勘定の三奉行、評定所といった役職と、その役割が整えられた。1635年には武家諸法度を改め、大名が1年おきに江戸と国元を行き来する参勤交代を制度として定めた(参勤交代の制度化)。大名の妻子は江戸に住まわされ、行列の費用は大名の財政を圧迫した。大名が幕府に逆らう力を持てないようにする仕組みであると同時に、街道と宿場と江戸の町を大きく育てる仕組みにもなった。
外との関係も、家光のもとで閉じられていく。祖父の時代に始まったキリスト教の禁止(キリシタン禁教令)はいっそう厳しくなり、1633年から、日本の船が海外に出ることが次々に制限され、1635年には日本人の海外渡航と帰国が全面的に禁じられた。1637年、九州の島原と天草で、重い年貢と信仰の弾圧に苦しんだ農民たちが、若い天草四郎を押し立てて蜂起した(島原の乱)。幕府は12万を超える大軍を送り、翌年、原城に立てこもった一揆勢をほぼ皆殺しにした。乱の後の1639年、家光はポルトガル船の来航を禁じ、1641年にはオランダの商館を長崎の出島に移した(鎖国の完成)。以後200年あまり、日本が外の世界と交わる窓は、長崎の出島などごく限られた場所だけになった。

家光は祖父家康を深く敬った。家康を夢に見ては、その姿を絵師に描かせたという。1634年から1636年にかけて、家康を祀る日光東照宮を大がかりに造り替えた。それまでの比較的簡素な社殿は、今に残る、彫刻と彩色で埋め尽くされた華やかな建物になった。その費用は幕府がまかなった。
私生活は、将軍として順調とは言えなかった。若いころは男色を好み、女性に関心を示さなかったと言われる。跡継ぎの誕生を心配したお福は、大奥の仕組みを整え、家光の側に女性たちを置いた。ようやく長男の家綱が生まれたのは1641年、家光が30代も後半に入ってからだった。お福は1643年に亡くなるまで、大奥を取り仕切った。
体も丈夫ではなかった。幼いころから病気がちで、成人してからもたびたび重い病に倒れ、心の不調に悩んだ時期もあったとされる。禅僧の沢庵と親しく、江戸の品川に寺を建てて招いた。剣の師は柳生宗矩で、将軍としてはめずらしく武芸を好んだ。
1651年、江戸城で亡くなった。数えで48歳だった。寵愛を受けていた老中の堀田正盛らが殉死した。遺言により、日光の祖父のそばに葬られた。その霊廟は大猷院と呼ばれ、東照宮に寄り添うように建っているが、祖父の社をしのがないよう、控えめに造られたという。
家光の死の直後、浪人たちが幕府の転覆を企てた事件(由井正雪の乱)が起きる。取り潰しを重ねた結果、主を失った浪人が町にあふれていたのである。跡を継いだ家綱の時代、幕府は大名の取り潰しを控える方向へ転じていく。
家康が天下を取り、秀忠がそれを受け継ぎ、家光の代で将軍を頂点とする幕府の形ができあがった。大名を統制する仕組みも、外の世界との付き合い方も、このとき定まった形がそのまま幕末まで続いた。戦を知らない最初の将軍が、戦のない時代の骨組みを作ったことになる。