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Person / 人

北条早雲

Hōjō Sōun
AD1432年 – AD1519年9月8日(享年87・推定)
後北条氏重要度 4

概要

伊勢新九郎盛時。室町幕府の役人の家で、妹が今川義忠の側室。今川の家督争いを収めて興国寺城を得た。1493年、伊豆の堀越公方を追い出した。「戦国最初の下剋上」。小田原を鹿狩りと称して取り、相模を取った。88歳で死んだと伝えるが、近年は64歳の説。「早雲寺殿二十一箇条」。北条の名は息子氏綱から。

所属

後北条氏

本文

伊勢新九郎盛時。伊勢宗瑞。北条早雲という名は自分では名乗らず、息子氏綱が北条を名乗ってからの呼び方。

長く「素浪人から一代で大名になった、下剋上の典型」と言われた。近年の研究で、室町幕府の政所執事伊勢氏の一族で、備中の荏原に領地を持ち、幕府の申次衆だったことが分かった。生年も、1432年(88歳で死んだ)から1456年(64歳)に修正された。

妹(北川殿)が駿河の今川義忠の妻。1476年、義忠が戦死し、今川の家督争い。新九郎が仲介して、妹の子龍王丸(氏親)を立てた。興国寺城を得た。1493年、伊豆。堀越公方足利政知の子茶々丸が継母と弟を殺して公方になっていた。新九郎が攻めて、追い出した。「戦国最初の下剋上」と言われた事件で、近年は、将軍義澄(茶々丸に母と弟を殺された)の命令だった、と考えられる。

1495年、小田原。大森藤頼を、鹿狩りの勢子を入れると偽って、夜襲した、と伝える。相模。三浦氏を1516年に新井城で滅ぼした。

1519年、韮山で死んだ。「早雲寺殿廿一箇条」。「朝は早く起きろ」「神仏を拝め」「髪は早く結え」「刀は錆びさせるな」「文を読め」「嘘をつくな」。大名の家訓の最初。

伊豆と相模。息子氏綱が武蔵を取り、北条を名乗り、鎌倉幕府の執権北条の後継者と称した。5代100年。