北条早雲
概要
伊勢新九郎盛時。室町幕府の役人の家で、姉か妹(北川殿)が今川義忠の妻。今川の家督争いを収めて興国寺城を得た。1493年、伊豆の堀越公方を追い出した。「戦国最初の下剋上」。小田原を鹿狩りと称して取り、相模を取った。88歳で死んだと伝えるが、近年は64歳の説。「早雲寺殿二十一箇条」。北条の名は息子氏綱から。
所属
後北条氏本文
北条早雲という名を、本人は一度も名乗っていない。生前の名は伊勢新九郎盛時、出家してからは早雲庵宗瑞と称した。北条の名字を使い始めたのは、息子の氏綱の代になってからである。後世の人々が、この一族の初代を北条早雲と呼んだ。

長い間、彼は戦国時代の幕を開けた下剋上の典型として語られてきた。出自の知れない一介の浪人が、知恵と度胸で一国を奪い取り、大名にのし上がった、というのである。生まれた年も1432年とされ、88歳まで生きた長命の人とされてきた。
この像は、20世紀の後半からの研究で大きく塗り替えられた。彼の父は伊勢盛定といい、室町幕府の財政と行政を担う政所の長官、執事を代々務めた伊勢氏の一族だった。備中国の荏原に領地を持ち、母はその伊勢氏の当主の娘だったとされる。盛時自身も、若いころ将軍足利義尚に仕え、将軍への取り次ぎを務める申次衆の一人になっていたことが、幕府の記録から分かっている。浪人どころか、幕府の中枢に近い家柄の出身だった。生年についても、1456年とする説が有力になり、それに従えば64歳で死んだことになる。
彼が東国と関わるきっかけを作ったのは、姉か妹にあたる北川殿だった。彼女は駿河の守護大名今川義忠に嫁いでいた。かつては側室とされたが、近年は正室だったと考えられている。応仁の乱で国中が乱れる中(応仁の乱)、1476年、義忠は遠江での戦いで討ち死にした。跡継ぎの龍王丸はまだ幼く、今川家では、一族の小鹿範満を推す勢力との間で家督争いが起きた。このときは、範満が家督を代行することでいったん収まった。

1487年、盛時は京から駿河へ下った。龍王丸が成人しても家督を返さない範満を攻め、自害に追い込んで、甥の龍王丸を今川家の当主に据えた。のちの今川氏親である。その功で、盛時は駿河の東端、伊豆との境に近い興国寺城を与えられたとされる。これが彼の拠点となった。
隣の伊豆には、堀越公方と呼ばれる足利氏の一族がいた。室町幕府が関東を治めるために送り込んだ足利政知の家である。政知が死ぬと、その長男の茶々丸が、継母とその子で自分の異母弟にあたる潤童子を殺して、跡を奪った。殺された潤童子の兄は、ちょうどそのころ京で将軍に立てられた足利義澄だった。1493年、盛時は伊豆に攻め入り、茶々丸を追い出した。

この伊豆への討ち入りは、長く戦国時代の始まりを告げる下剋上の事件とされてきた。だが近年の研究では、母と弟を殺された将軍義澄が、仇を討つよう盛時に命じたものだったと考えられている。伊豆を手に入れた盛時は、韮山に城を構え、ここを生涯の本拠とした。茶々丸は各地を逃げ回り、最終的に自害に追い込まれたのは1498年だった。
伊豆では、領民の税を軽くしたと伝えられる。それまで収穫の半分ほどを取り立てていたのを、四割に下げたという。病が流行すると、兵に命じて看病させたという話もある。どこまで事実かは分からないが、民の心をつかむことに長けた領主として語り継がれた。
次に彼が狙ったのは、箱根の山を越えた相模の小田原だった。後世の軍記物語は、こんな話を伝えている。小田原城主の大森藤頼に、狩りの最中に鹿が箱根の山に逃げ込んだので、勢子を入れさせてほしいと頼んだ。許しを得ると、勢子に化けさせた兵を山に送り込み、夜、千頭の牛の角に松明を結んで突進させ、大軍が攻めてきたと見せかけて城を奪った。1495年のこととされてきたが、この話は物語としての色合いが濃く、小田原を手に入れた年も、近年は1500年前後とする見方が強い。
その後、相模の東部に勢力を張る名門三浦氏と、長い戦いを続けた。1516年、三浦半島の新井城に立てこもった三浦義同、号して道寸の一族を、3年に及ぶ包囲の末に滅ぼし、相模一国を手中に収めた。彼はこのとき、すでに家督を息子の氏綱に譲り始めていた。
1519年、韮山城で死んだ。家臣に向けて生活の心得を説いた「早雲寺殿廿一箇条」が、彼の残した家訓として伝わっている。朝は早く起きよ、夜は早く寝よ、神仏を拝め、身なりを整えよ、嘘をつくな、暇があれば書物を読め、といった、細やかで実際的な教えが並ぶ。ただし、これを彼自身が書いたものかどうかは、確かではない。
伊豆と相模を受け継いだ氏綱は、武蔵へと勢力を広げ、1523年ごろから北条の名字を名乗った。かつて鎌倉幕府の執権として関東を治めた北条氏、北条義時や北条泰時の家の後継者であることを示し、関東を治める正統性を得るためだったと考えられている。氏綱の子の北条氏康の代に関東の大半を支配する大大名となった。こうして始まった小田原の北条氏、いわゆる後北条氏は(後北条氏)、5代およそ100年にわたって関東に君臨し、1590年に豊臣秀吉に小田原城を囲まれて滅んだ。