できごと

長篠の戦い

Battle of Nagashino
AD1575年6月29日(天正3年5月21日)
重要度 5
長篠の戦いに関わる図版:Battle-of-Nagashino-Map-Folding-Screen-1575
Battle-of-Nagashino-Map-Folding-Screen-1575 Wikimedia Commons Unknown author (Edo period, circa 18th century) · Public domain

概要

武田勝頼1万5000が長篠城を囲み、信長・家康3万8000が設楽原に馬防柵を作って待った。鉄砲3000挺(1000とも)。武田の騎馬が柵に突撃を繰り返し、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊が死んだ。「三段撃ち」は後の話。武田は7年後に滅んだ。鳥居強右衛門が援軍を告げて磔にされた。

場所

長篠
34.92°N 137.56°E · 愛知県新城市

関わった人(3)

織田信長AD1534年–AD1582年6月21日 · 柵と鉄砲徳川家康AD1543年–AD1616年 · 共に武田勝頼AD1546年–AD1582年4月3日 · 突撃させた

本文

1575年5月21日(西暦では6月29日)、三河の設楽原で、武田勝頼の率いる武田軍が、織田信長と徳川家康の連合軍に大敗した。武田軍は、馬防柵を前に構えた織田・徳川の鉄砲隊と槍隊に向かって攻撃を繰り返し、信玄以来の重臣たちを次々に失った。この戦いは、鉄砲が戦の形を変えた戦いとして語られてきた。

勝頼は、1573年に陣中で死んだ父武田信玄の跡を継いでいた。信玄の死は3年間伏せるよう遺言されたと伝えられるが、周囲にはほどなく知られた。勝頼は父に劣らぬ戦上手で、1574年には遠江の高天神城を落とした。信玄も攻めあぐねたとされる堅城で、勝頼は父を超えた、と思われた。武田の領国は、この時期に最も広くなった。

Japan Tokai topographic map
Wikimedia Commons Soren Bradley · CC BY 4.0

1575年4月、勝頼は三河に攻め込んだ。徳川方の内部に内通者がいて、本拠の岡崎を突く計画だったが、事前に露見して失敗した。勝頼は矛先を変え、5月、1万5000ほどの兵で長篠城を囲んだ。長篠城は豊川と宇連川の合流点の崖の上にある小さな城で、守るのは奥平貞昌(のちの信昌)と兵500ほどだった。奥平氏はもともと武田に従っていたが、1573年に徳川方へ寝返った家で、勝頼はその際に人質だった奥平の一族を処刑していた。城兵にとって、降伏は死を意味した。

城は兵糧庫を焼かれて追い詰められた。このとき、城兵の鳥居強右衛門が夜に城を抜け出し、武田の包囲をくぐって岡崎まで走り、家康と信長に援軍を求めた。信長がすでに出陣していると知った強右衛門は、そのことを城に伝えるために引き返し、城の近くで武田方に捕らえられた。武田方は、援軍は来ないと城に向かって叫べば命を助ける、と持ちかけた。強右衛門は承知したふりをして城の前に立ち、援軍はまもなく来る、あと2、3日持ちこたえよ、と叫んだ。強右衛門はその場で磔にされた。この話は『信長公記』や大久保忠教の『三河物語』に見え、磔にされた姿を描いた旗が、武田の家臣の子孫に伝わっている。

Japan Enshu sea location map
Wikimedia Commons Soren Bradley · CC BY 4.0

信長は約3万、家康は約8000の兵を率い、5月18日、長篠城の西の設楽原に着いた。信長は連吾川という小さな川の西側の台地に陣を敷き、川に沿って馬防柵を築かせた。柵の材木は、岐阜からの道中で兵に持たせてきたと伝えられる。柵は一重ではなく、柵と空堀と土塁を組み合わせた陣地だったと考えられている。

武田の陣中では、信玄以来の重臣たちが、兵力の差を考えて退くよう勧めたとされる。勝頼は決戦を選んだ。5月21日の未明、家康の重臣酒井忠次の別働隊が、長篠城を見張る武田方の鳶ヶ巣山砦を背後から奇襲して落とした。長篠城の包囲は解け、武田軍は背後を脅かされた。前へ出るしかなかった。

『長篠合戦図屏風』の一部(徳川美術館蔵)[注釈 17]
『長篠合戦図屏風』の一部(徳川美術館蔵)[注釈 17]Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

戦いは早朝から始まり、昼過ぎまで続いた。武田軍は左右と中央から、繰り返し柵に向かって攻めかかった。柵の前で鉄砲に撃たれ、柵に取りついたところを槍で突かれた。山県昌景、馬場信春、内藤昌秀(昌豊とも)、原昌胤、土屋昌続、真田信綱と昌輝の兄弟(信繁の伯父にあたる)。信玄を支えた重臣たちが、この一日で討ち死にした。武田方の死者を『信長公記』は1万ばかりと記すが、実際には数千とみる研究者が多い。勝頼はわずかな供回りとともに甲斐へ逃げ帰った。

織田・徳川軍の鉄砲の数は、長く3000挺と言われてきた。ところが太田牛一の『信長公記』の写本には「千挺ばかり」と書くものがあり、3000という数は、のちに書き加えられたものではないかと指摘されている。信長はこのほかにも各地の家臣から鉄砲と鉄砲衆を集めており、全体で何挺あったのかは分からない。

1575年の長篠攻めで、背に髑髏を描いた旗を立てる酒井忠次(月岡芳年画)
1575年の長篠攻めで、背に髑髏を描いた旗を立てる酒井忠次(月岡芳年画)Wikimedia Commons Taiso Yoshitoshi. Uploaded by Rama · Public domain

鉄砲隊を3列に並べ、1000挺ずつ交代で絶え間なく撃つ「三段撃ち」の話は、江戸時代初めに小瀬甫庵が書いた『信長記』に始まるとされる。甫庵の本は読み物としての脚色が多い。明治の陸軍参謀本部が編んだ『日本戦史』がこの話を取り上げ、教科書や小説を通じて広まった。近年の研究は、火縄銃で数千人が整然と交代射撃をするのは難しく、実際には柵の後ろで、組ごとにそれぞれ撃ったのだろうと考えている。

武田の「騎馬隊の突撃」も、絵や映画が作ったイメージに近い。当時の日本の馬は小柄で、武士は戦場で馬を降りて戦うことも多かった。武田軍にも騎馬の武者はいたが、軍の多くは徒歩の足軽だった。突撃を繰り返したのは、騎馬の集団というより、武田軍そのものだった。

長篠のあとも、武田はすぐには崩れなかった。勝頼は領国を立て直し、北条や上杉と同盟を組み直した。しかし重臣を一度に失った痛手は大きく、1581年に高天神城が徳川軍に落とされたとき、勝頼は援軍を送れなかった。見捨てられたと感じた国衆の心は武田から離れていった。1582年、織田・徳川の軍が甲斐と信濃に攻め込むと、武田の家臣は次々に寝返った。勝頼は甲斐の天目山のふもとで、妻子とともに自害した。長篠から7年後のことである。その3か月後、信長も本能寺の変で倒れた。

本能寺の変に関わる図版:Honnoj
本能寺の変Wikimedia Commons Nobukazu Yōsai · Public domain

長篠の戦いの細部は、ほとんどが後世の書物によって飾られている。三段撃ちも3000挺も、騎馬隊の突撃も、そのまま信じることはできない。それでも、数で勝る側が柵と堀で陣地を固め、鉄砲を集めて待ち受け、攻めかかる側を一方的に倒した戦いだったことは確かである。信長はこの年、石山合戦で本願寺と戦い、越前の一向一揆を討ちながら、東の最大の敵を退けた。翌年、彼は安土城を築き始める。

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