概要
武田勝頼1万5000が長篠城を囲み、信長・家康3万8000が設楽原に馬防柵を作って待った。鉄砲3000挺(1000とも)。武田の騎馬が柵に突撃を繰り返し、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊が死んだ。「三段撃ち」は後の話。武田は7年後に滅んだ。鳥居強右衛門が援軍を告げて磔にされた。
場所
34.92°N 137.56°E · 愛知県新城市
関わった人(3)
織田信長AD1534年–AD1582年6月21日 · 柵と鉄砲徳川家康AD1543年–AD1616年 · 共に武田勝頼AD1546年–AD1582年4月3日 · 突撃させた本文
武田勝頼は父の死から2年、遠江と三河の徳川領を攻めていた。1574年、高天神城を落とした(信玄が落とせなかった城)。1575年5月、三河の長篠城を1万5000で囲んだ。城には奥平信昌500。奥平は武田から徳川に寝返った家で、勝頼は許さなかった。
鳥居強右衛門が城を抜け出して岡崎へ走り、家康と信長の出陣を確かめ、戻る途中で捕まった。武田は「援軍は来ないと城に言え」と言い、強右衛門は城に向かって「援軍は来る、2、3日持ちこたえろ」と叫んで、磔にされた。
信長3万、家康8000。5月18日、設楽原に着いた。連吾川の西に、3重の馬防柵。丸太を運んで来ていた。鉄砲は3000挺(『信長公記』の写本で「千」と「三千」がある)。武田の家臣は退くよう言った。勝頼は攻めた。
5月21日、朝6時から昼過ぎまで。武田の騎馬が柵に向かって突撃した。武田の騎馬は本当は下馬して戦うことが多く、「騎馬隊の突撃」は後の絵。柵の前で鉄砲に撃たれ、柵で止まり、槍で刺された。山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱・昌輝(幸村の伯父)。武田の死者1万、と言われる。数千だろう。
「三段撃ち」は、1000挺ずつ3列が交代で撃った、という話で、江戸時代の『甫庵信長記』が言い、明治の陸軍参謀本部が『日本戦史』に書いた。近年の研究は疑う。当時の火縄銃で3列の交代射撃は統制が難しい。
武田は7年持って、1582年、天目山。長篠は、鉄砲が多い側が、柵で守って、突撃する側を倒した戦い。それは確か。