概要
近江の寺の小姓で、鷹狩りの秀吉に三度お茶を出した(ぬるく、少し熱く、熱く)。五奉行。検地と朝鮮出兵の兵站。武断派に嫌われた。秀吉が死んで、家康と対し、関ヶ原で負けた。伊吹山で捕まり、京で斬られた。「大一大万大吉」。処刑の前に、柿を「体に毒だ」と断った話。
関わったできごと(4)
太閤検地AD1582年(天正10年)〜 · 実務秀吉の天下統一AD1590年 · 奉行文禄・慶長の役1592年 · 兵站関ヶ原の戦いAD1600年10月21日 · 西軍本文
1560年、近江の石田村。土豪の次男。長浜城主だった秀吉が鷹狩りの帰りに寺に寄り、小姓の三成が茶を出した。1杯目はぬるく大きな碗で、2杯目は少し熱く半分、3杯目は熱く小さく。「三献の茶」。江戸時代の話。
秀吉の側近。1585年、従五位下治部少輔。堺の奉行、検地の奉行(太閤検地の実務の中心)、島津との交渉、九州の兵站、小田原、奥州の検地、朝鮮出兵の兵站と朝鮮での軍目付。佐和山19万4000石。五奉行の一人。「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」。
嫌われた。加藤清正、福島正則ら朝鮮で戦った武将が、三成が戦の様子を秀吉に悪く報告した、と恨んだ。1598年、秀吉が死んだ。1599年、前田利家が死んだ翌日、清正と正則ら7人が三成を襲った。三成は家康の屋敷に逃げ込んだ、と伝える(伏見の自邸に籠もった、が近年の説)。家康が仲裁して、三成は佐和山に隠居した。
1600年。家康が上杉征伐で東へ行った隙に、三成は大谷吉継と毛利輝元を担いで、立った。西軍。9月15日、関ヶ原。小早川秀秋の裏切りで、半日。三成は伊吹山に逃げ、6日後、故郷の近くで捕まった。
大津城の門前に晒された。福島正則が「なぜ」と言い、三成は「お前を殺したかったが、できなかっただけだ」と言った。10月1日、京の六条河原で斬られた。41歳。処刑の前に、柿を勧められて「痰の毒だ」と断った。「大志を持つ者は最後まで命を惜しむ」。
「大一大万大吉」。一人が万人のために、万人が一人のために、天下は吉。旗印。
江戸時代は「奸臣」で、明治以後に「義」の人になった。