人物

石田三成

Ishida Mitsunari
AD1560年 – AD1600年11月6日(慶長5年10月1日)(享年40・推定)
豊臣氏重要度 5

概要

近江の寺の小姓で、鷹狩りの秀吉に三度お茶を出した(ぬるく、少し熱く、熱く)。五奉行。検地と朝鮮出兵の兵站。武断派に嫌われた。秀吉が死んで、家康と対し、関ヶ原で負けた。伊吹山で捕まり、京で斬られた。「大一大万大吉」。処刑の前に、柿を「体に毒だ」と断った話。

関わったできごと(4)

太閤検地AD1582年(天正10年)〜 · 実務秀吉の天下統一AD1590年 · 奉行文禄・慶長の役1592年 · 兵站関ヶ原の戦いAD1600年10月21日 · 西軍

本文

1560年、近江の坂田郡石田村に、土地の有力者石田正継の次男として生まれた。琵琶湖の北東、のちに長浜と呼ばれる城下に近い村である。

Ishida Mitsunari
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秀吉との出会いについては、有名な話がある。長浜の城主になった豊臣秀吉が鷹狩りの帰りに喉が渇き、近くの寺に立ち寄って茶を求めた。寺の小姓だった三成は、最初に大きな茶碗にぬるい茶をなみなみと出した。秀吉が飲み干してもう一杯と言うと、今度は少し熱い茶を茶碗に半分ほど、三杯目には小さな茶碗に熱い茶を少しだけ出した。喉の渇きに合わせた心配りに感心した秀吉が、この小姓を召し抱えた、という「三献茶」の話である。江戸時代の書物に初めて見える逸話で、事実かどうかは分からない。ただ、10代の半ばには秀吉に仕えていたらしい。

三成が力を発揮したのは、戦場よりも、戦を支える仕事の場だった。秀吉が天下統一へ進むにつれて、大軍を動かすための兵糧や武器を集めて運ぶこと、征服した土地を調べて治めること、諸大名と交渉することが、ますます重要になった。三成は堺の町を治める奉行となり、九州攻めでは大軍の兵站を受け持ち、戦後は焼け野原になった博多の町の復興に携わった。全国の田畑の広さと収穫を測り直す太閤検地では、検地の奉行として各地を回り、その実務の中心となった。1585年には従五位下治部少輔の官位を受け、以後「治部少」と呼ばれる。

1590年の小田原攻めでは、関東の忍城を水攻めにしたが、城は落ちなかった。三成が戦下手だったという評判は、このあたりからも語られる。

秀吉が朝鮮に兵を送った文禄・慶長の役では、三成は自ら海を渡り、漢城(今のソウル)で諸将の軍を監督する奉行を務め、小西行長らとともに明との講和交渉にあたった。食糧も補給も尽き、異国で苦しい戦いを強いられた武将たちにとって、三成は秀吉の目となって自分たちの働きを報告する存在だった。加藤清正や福島正則ら、若いころから秀吉に仕えて戦場で手柄を立ててきた武将たちは、三成が自分たちのことを秀吉に悪く伝えたと恨むようになった。武功で身を立てた者たちと、政務で頭角を現した者たちの溝は、豊臣政権の中で深くなっていった。

文禄・慶長の役に関わる図版:Siege-of-Busanjin-1592
文禄・慶長の役Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

その一方で、三成は近江の佐和山城を与えられ、19万石あまりを治める大名になった。名高い武将の島左近を、自分の知行の半分を与えて召し抱えたという話が伝わり、三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城、と歌われた。秀吉の晩年には、政権の実務を担う五奉行の一人となった。

1598年、秀吉が亡くなった。後に残されたのは6歳の秀頼である。秀吉は、徳川家康ら五大老と五奉行に、秀頼が成人するまで政権を支えるよう遺言した。三成はまず、朝鮮に残る軍を撤収させる仕事に奔走した。だが、秀吉の死を待っていたかのように、徳川家康が勢力を広げ始めた。秀吉の定めた禁を破って、諸大名と勝手に縁組を結んだのである。三成はこれを問題にし、家康と対立した。

1599年、家康を抑えていた五大老の一人前田利家が亡くなった。その直後、加藤清正、福島正則ら7人の武将が、三成を討とうと兵を動かした。三成は伏見に逃れた。このとき三成が、あえて敵である家康の屋敷に逃げ込んだという劇的な話が広く知られているが、近年の研究では、伏見城内の自分の屋敷に立てこもったとする見方が有力である。家康が仲裁に入り、三成は奉行の職を退いて佐和山城に引きこもることになった。

1600年、家康が会津の上杉景勝を討つために大軍を率いて東へ向かった隙に、三成は動いた。親友の大谷吉継を説得して味方に引き入れ、中国地方の大大名毛利輝元を総大将に迎え、宇喜多秀家らとともに、家康を討つ兵を挙げた。大谷吉継は、病のために顔を布で覆っていたと伝えられる武将で、初めは三成を思いとどまらせようとしたが、最後は友情から加わったという。

9月15日、美濃の関ヶ原で、東西両軍がぶつかった(関ヶ原の戦い)。戦いは午前中は互角だったが、松尾山に陣取っていた小早川秀秋の軍が西軍を裏切って大谷吉継の陣に襲いかかり、西軍は総崩れになった。毛利の軍の一部は、家康と内通していた吉川広家に押しとどめられて、最後まで動かなかった。合戦は半日で決した。大谷吉継は自害した。

関ヶ原の戦いに関わる図版:Sekigaharascreen
関ヶ原の戦いWikimedia Commons User LordAmeth on en.wikipedia Collection of The Town of Sekigahara Archive of History and Cultural Anthropology · Public domain

三成は戦場を逃れ、伊吹山の山中に身を隠した。数日後、故郷に近い村に潜んでいたところを捕らえられた。その後、大坂と堺の町を引き回された。

最期にまつわる逸話がいくつか残っている。処刑の場へ向かう途中、喉が渇いて湯を求めたが、湯はなく、代わりに干し柿を勧められた。三成は、柿は痰の毒だと言って断った。これから首を斬られる者が体をいたわるのかと笑われると、大志を抱く者は最期の瞬間まで命を大切にするものだ、と答えたという。江戸時代の書物に見える話である。

10月1日、三成は京都の六条河原で、小西行長、安国寺恵瓊とともに斬られた。数えで41歳だった。首は三条河原にさらされた。

三成の旗印には「大一大万大吉」という文字が記されていた。一人が万人のために、万人が一人のために尽くせば、天下は吉となる、という意味だと説明されることが多いが、本来の意味ははっきりしない。

江戸時代には、徳川家に逆らった三成は、豊臣家を乱した奸臣として描かれることが多かった。明治時代になると、徳川の世の評価から解き放たれて見直しが進み、亡き主君への恩に報いようとした義の人として語られるようになった。融通の利かない官僚か、筋を通した忠臣か。その評価の揺れは、勝者が歴史を書くということを、そのまま映している。

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