概要
李舜臣が、屋根を板で覆って鉄の錐を植えた亀甲船を先頭に、閑山島の沖で日本の水軍を鶴翼の陣で囲んだ。73隻のうち59隻を沈めた。日本軍は、西の海から漢城と平壌へ物資を送る道を失い、陸の進軍が止まった。彼は讒言で官を奪われ、白衣従軍させられ、後任が全滅した後に呼び戻されて、残った12隻で鳴梁を戦った。
場所
37.57°N 126.98°E · 大韓民国
関わった人(1)
李舜臣AD1545年4月28日–AD1598年12月16日 · 率いた本文
1592年4月(陰暦)、日本軍15万余が釜山に上陸した。20日で漢城、2か月で平壌。朝鮮の陸軍は崩れた。
海。全羅左道水軍節度使、李舜臣。開戦の1年2か月前に、その職に就いていた(柳成龍の推薦。7階級の特進で、異例だった)。彼は、着任後、船を修理し、兵を訓練し、そして亀甲船を作った。
亀甲船(コブクソン)。記録は『李忠武公全書』(1795年)に図と説明がある。基本は既存の板屋船(3層構造の主力艦)で、その上に、板の屋根をかぶせ、そこに鉄の錐(あるいは刀)を植える。上から飛び移って白兵戦に持ち込む日本の戦法を、封じるため。舳先に龍の頭を付け、そこから煙(あるいは砲)を出す。船の側面と前後に、大砲を14〜36門。漕ぎ手は屋根の下で守られる。
鉄で覆われていたか。『全書』の図には鉄甲の記述がない。「鉄甲船」とする説と、「木の屋根に鉄の錐」とする説があり、後者が有力。
朝鮮水軍の船。板屋船は、松の厚板を木釘で組み、底が平ら。頑丈で、回頭が速く、大砲の発射に耐える。大砲(天字・地字・玄字・黄字銃筒)を多く積む。
日本の船。安宅船と関船。杉の薄板を鉄釘で組み、速いが、大砲の反動に耐えられない。日本の海戦は、接近して、鉄砲を撃ち、乗り移って斬る。
だから、朝鮮側は、距離を取って撃つ戦法を取った。
玉浦(5月7日、26隻を撃沈)、泗川(亀甲船の初陣)、唐浦、栗浦。
1592年7月8日(陽暦8月14日)、閑山島。
日本側は脇坂安治の73隻。李舜臣は、狭い見乃梁の海峡にいた敵を、広い閑山島の沖へ誘い出した。数隻で挑発して、退く。追ってきたところで、待っていた本隊が左右に開いた。「鶴翼の陣」。
包囲して、砲撃した。59隻を沈め、あるいは捕獲した。日本側の死者は数千。朝鮮側の船の損失はゼロ。
結果。日本軍は、黄海を回って西の海岸から平壌へ物資を送る計画を断念した。陸の部隊は補給を失い、平壌で止まった。冬が来て、明の援軍が来た。
その後の李舜臣。1597年、日本の離間の計と、朝廷内の党争(西人と東人)で、「命令に従わなかった」として捕らえられ、拷問を受け、死刑を減じられて、一兵卒として従軍させられた(白衣従軍)。後任の元均が、7月、漆川梁で水軍を全滅させた(船が12隻だけ残った)。
朝廷は彼を呼び戻した。宣祖が「水軍を捨てて陸に上がれ」と命じた。彼は答えた。「今なお、戦船12隻がございます。……微臣がまだ死んでおりませんので、敵は我らを侮ることはできません」。
1597年9月16日、鳴梁。13隻(12隻に1隻が加わった)で、日本の133隻を、潮流の速い海峡で迎えた。31隻を沈めた。
1598年11月19日、露梁。秀吉が死に、日本軍が撤退する、その最後の海戦で、明の水軍と共に戦い、流れ弾に当たった。「戦いが急である。私が死んだことを言うな」。54歳。
『乱中日記』。7年の陣中で書き続けた日記。母のこと、部下のこと、天気、夢、そして体の痛み。国宝で、2013年にユネスコの世界の記憶に登録された。