駕籠と輿
概要
人が人を担いで運ぶ乗り物は、東アジアにも南アジアにも地中海にもあった。日本では、高い身分の者が乗る輿と、庶民も使える駕籠が分かれる。江戸には辻駕籠が並び、料金の相場ができ、担ぎ手の組合ができた。だれが乗ってよいかは幕府が細かく決めていて、乗り物は身分を外から見せる装置でもあった。動力は人の脚であり、坂と天候と担ぎ手の体力が、そのまま所要時間になる。車輪ではなく人を選んだのは、道が舗装されていないところでは、そのほうが速く、揺れなかったからである。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
本文
人が人を担いで運ぶ乗り物は、車輪の乗り物より古いかもしれない。古代エジプトには担ぎ椅子があり、アッシリアの浮き彫りにも担がれる貴人の姿が刻まれている。ローマでは、横になったまま運ばれる輿「レクティカ」が使われ、共和政の末期には贅沢のしるしとして非難の的にもなった。インドには「パールキー」と呼ばれる輿があり、英語の「パランキン」はこの系統の言葉をポルトガル人がインドで覚え、ヨーロッパへ持ち帰ったものとされる。中国には轎(きょう)があり、朝鮮にも輿があった。道具としては単純である。棒が二本あり、そのあいだに座る場所があり、二人から八人ほどが担ぐ。
日本では、二つの系統が分かれた。一つは輿である。古くは天皇や上級の貴族の乗り物で、屋根に金色の鳳凰を飾った鳳輦(ほうれん)や、葱の花をかたどった飾りを載せた葱花輦(そうかれん)があった。輿に乗れるかどうか、どの形の輿に乗れるかが、そのまま朝廷の序列を表した。もう一つが駕籠である。中世の終わりから近世にかけて広まった、輿より簡素で軽い乗り物で、一本の棒に籠のような箱を吊るして前後で担ぐ。竹で編んだものも板で作ったものもあり、こちらは庶民も乗ることができた。

江戸の町では、辻駕籠が客を待っていた。担ぐのは二人一組が基本で、前を担ぐ先棒と後ろを担ぐ後棒が、掛け声で歩調を合わせる。値段は距離で決まり、日本橋から品川まで、というように区間ごとの相場があった。もっとも、実際には交渉で決まることも多く、法外な額を吹っかける駕籠かきもいて、取り締まりの触書が何度も出ている。夜は割増になり、雨の日や坂の多い道も値が上がった。担ぎ手たちは仲間の組を作り、縄張りを持っていて、新しく割り込むのは簡単ではなかった。街道筋では、宿場ごとに人足と馬を用意する仕組みがあり(五街道と宿場)、旅人は宿場から宿場へ駕籠を乗り継いだ。『東海道中膝栗毛』にも、駕籠かきとの値段の掛け合いがたびたび出てくる。
駕籠は、だれでも勝手に乗ってよいものではなかった。幕府は乗り物に細かい決まりを設けていた。引き戸のついた上等な「乗物」に乗れるのは、大名や上級の武士、高位の僧などに限られた。一般の武士や庶民が駕籠に乗るのは、老人や病人、医者など、理由のある場合に許されるという建前の時期もある。江戸の町の駕籠の数に上限を設けたこともあった。増えすぎれば道が混み、担ぎ手として農村から人が流れ出てしまうからである。大名行列の乗物の飾りの程度にまで定めがあった。乗り物は移動の手段であると同時に、乗っている人の身分を外から見せる装置であり、それを制度が支えていた。

日本にも、車輪の乗り物が無かったわけではない。平安時代の貴族は牛車で移動していた。ところが近世になると、人が乗る車はほとんど姿を消す。理由はいくつも重なっている。道が舗装されておらず、山がちで坂が多く、雨が降ればぬかるむ。車輪は轍を掘り、道を傷める。大井川のように橋を架けない大河があり(江戸の守りのためと説明されることが多いが、技術や費用の事情を挙げる説もある)、渡し舟や川越人足の肩に車は載せにくい。荷物を運ぶのは主に馬と人で、運賃を指す「駄賃」はもともと荷を運ぶ馬につける賃金のことである。そして悪路では、車輪より人の脚のほうが揺れない。段差を脚が吸収するからだ。技術が無かったのではなく、その道と地形と制度のもとでは、人が担ぐほうが理にかなっていた。
終わりは急に来た。明治のはじめ、人力車が現れる。人が引くことに変わりはないが、車輪が入った。同じ頃、道路の改修が進み、乗合馬車や鉄道も走り始める。駕籠は数年のうちに町からほとんど消え、山道の観光や祭礼の行列にだけ残った。

いまも輿の形をそのまま残しているのが、祭りの神輿である。神を乗せて町を巡るその乗り物を担ぐのは、いまも人の肩だ。
人を運ぶのに人の脚を使う方法は、最も古く、最も長く続いた運び方だった。そこには必ず、担ぐ側と担がれる側の区別がある。誰が担ぎ、誰が乗るのかという問いは、乗り物の形が変わっても長く残った。動力を人から外へ移す道筋、つまり馬が引く乗合馬車、そして蒸気と電気へと続く流れの、いちばん手前に、担ぐという方法がある。