徳川綱吉
概要
家光の四男。館林25万石から、兄家綱に子がなくて5代将軍。初めは「天和の治」、儒学を自分で講義し、湯島聖堂を建て、赤穂事件で浅野に切腹を命じた。母桂昌院を従一位に。生類憐みの令。柳沢吉保。元禄文化の将軍。犬公方。麻疹で死んだ。
関わったできごと(2)
生類憐みの令AD1687年(貞享4年) · 出した赤穂事件1701年 · 切腹を命じた本文
1646年、江戸城で生まれた。3代将軍徳川家光の四男である。母のお玉(のちの桂昌院)は京の出で、八百屋の娘だったと伝えられる。出自には異説もあるが、町の娘が将軍の母になったという話は人々の好みに合い、「玉の輿」の語源だという俗説まで生まれた。父の家光は、兄たちとは違って学問好きに育てよと言い残したとされ、綱吉は幼いころから儒学の書を熱心に読んだ。

家光の死後、兄の家綱が4代将軍になり、綱吉は上野国館林の城主になった。のちに25万石の大名である。本来なら将軍になる立場ではなかった。ところが家綱には跡継ぎの男子が生まれなかった。1680年、病が重くなった家綱は、死の直前に弟の綱吉を養子に迎えた。綱吉は5代将軍になった。満34歳である。このとき大老の酒井忠清が京から皇族を迎えようとし、老中の堀田正俊が綱吉を推して押し切った、という話が伝わるが、確かな史料には乏しい。
将軍になった綱吉は、すぐに強い態度を見せた。前の政権が決着させていた越後高田藩の家中の争い(越後騒動)を、自ら裁き直し、藩を取り潰した。不正をはたらいた代官を次々に処分し、将軍の目が隅々まで届くことを示した。堀田正俊を大老に据えたこの初めの数年は、のちに「天和の治」と呼ばれる。1683年には武家諸法度を改め、第1条を「文武弓馬の道」から「文武忠孝を励まし、礼儀を正すべき事」に変えた。武士に求めるものを、戦う力から、主君への忠と親への孝、礼儀へ移したのである。

1684年、堀田正俊が江戸城内で親族の若年寄に刺し殺された。この事件のあと、綱吉は老中を遠ざけ、牧野成貞や柳沢吉保といった側用人を通じて政治を動かすようになる。将軍の意思がそのまま政治になる形が強まった。
綱吉は儒学を政治の柱にした。自ら『大学』や『易経』を講義し、大名や旗本に聞かせた。1690年、上野にあった林家の孔子廟を湯島に移して大きな聖堂を建て、翌年、林信篤(鳳岡)を大学頭に任じた。湯島聖堂はのちに幕府の学問所、昌平坂学問所になる。1684年には服忌令を定め、親族が死んだときに喪に服す日数を細かく決めた。死や血のけがれを避ける考えを、武家社会のすみずみに広めることになった。

綱吉の名をもっとも有名にしたのは、生類憐みの令である(生類憐みの令)。一つの法令ではなく、1680年代半ばから20年あまりにわたって出された一連の命令の総称で、犬だけでなく、牛馬、鳥、魚や貝、さらに捨て子や病人、行き倒れの旅人の保護まで含んでいた。とりわけ犬の保護は極端になり、江戸の中野などに巨大な犬小屋が作られて、多いときには数万頭が養われたとされる。犬を傷つけた者が重く罰せられた例もあり、江戸の人々は綱吉を犬公方と呼んだ。跡継ぎの子を亡くした綱吉に、僧の隆光が、戌年生まれだから犬を大切にせよと勧めた、という話はよく知られるが、隆光が江戸に来る前から令は始まっていて、後世の作り話とする見方が強い。
1701年3月、江戸城の松の廊下で赤穂藩主の浅野長矩が高家の吉良義央に斬りつけた(赤穂事件)。勅使を迎える儀式の最中だったことに綱吉は激怒し、浅野をその日のうちに切腹させ、藩を取り潰した。吉良は咎めなしとされた。翌年12月、赤穂の旧臣たちが吉良を討つと、幕府は処分に迷った。忠義の行いとして助けるべきだという声も強かったが、1703年2月、46人に切腹が命じられた。
母への孝行も徹底していた。1702年、朝廷に働きかけて桂昌院に従一位の位を贈らせた。町の出とされる女性としては破格である。母の帰依した寺を江戸に建て、多額の寄進を重ねた。寺社の造営や将軍家の儀式で幕府の金は減り、勘定方の荻原重秀は1695年、小判の金の割合を下げた元禄金銀を造って差益で財政を補った。物の値は上がったが、出回る貨幣が増えて景気を支えたとする見方もある。
綱吉の時代は、上方と江戸の町人が力をつけた時代でもあった(元禄文化)。井原西鶴が町人の欲と金を書き、松尾芭蕉が旅に出て句を詠み、近松門左衛門が心中物の浄瑠璃で大坂の人々を泣かせた。将軍がそれを後押ししたわけではないが、長い平和と経済の伸びが、それを可能にした。一方で晩年は災害が続いた。1703年に関東を大地震が襲い、1707年には東海から南海にかけての大地震の49日後に富士山が噴火した(宝永の大噴火)。

オランダ商館の医師として江戸に来たドイツ人ケンペルは、1691年と翌年に綱吉に謁見している。御簾の向こうの将軍の求めで、歩いたり歌ったりさせられた様子を書き残しながら、綱吉を法を重んじる賢い君主として描いた。
1709年1月(新暦2月19日)、麻疹にかかって亡くなった。62歳だった。後を継いだ甥の家宣はただちに生類憐みの令の多くを廃し、新井白石を用いて政治の刷新に取りかかった(正徳の治)。綱吉は長く、犬のために人を苦しめた暗君として語られてきた。しかし近年は、戦国の気風が残る武士の世から、人や生き物を殺すことをいとう社会へ移した将軍として見直されている。捨て子や病人を保護させた命令は、廃止されずに残ったものも多い。身長が124センチほどだったとも言われるが、三河の大樹寺にある位牌の高さからの推測で、確かめようはない。