物語

『応仁の乱』で読む日本の転換点

出てくるできごと AD1290ごろ – AD1577
できごと 5国 1
この物語に出てくる図版:Onin-War-1467-1477-The-Battle-of-Onin-by-Utagawa-Yoshitora
この物語に出てくる応仁の乱から。Onin-War-1467-1477-The-Battle-of-Onin-by-Utagawa-Yoshitora Wikimedia Commons Utagawa Yoshitora · Public domain

概要

主役がいない。勝者もいない。11年戦って何も決まらなかった戦乱を、二人の僧の日記から追う。

この物語について

11年も戦って、なぜ何も決まらなかったのか。そして、何も決まらなかった戦乱が、なぜ日本の歴史の分かれ目と呼ばれるのか。

『応仁の乱』(呉座勇一、2016年)は、日本史で最も分かりにくいとされる戦乱を扱う。分かりにくいのには理由がある。英雄がいない。目的がはっきりしない。途中で東西の陣営を移る者がいる。将軍の弟でさえ、はじめは東軍に身を置き、のちに西軍に担がれた。そして11年戦って、勝ち負けが決まらないまま終わる。

本は、奈良の興福寺の二人の僧が残した日記を軸に据えた。経覚と尋尊である。どちらも興福寺の大乗院の門跡を務めた高僧で、経覚は九条家、尋尊は一条兼良の子として生まれた。経覚の日記は『経覚私要鈔』、尋尊の日記は『大乗院寺社雑事記』と呼ばれる。京都から離れた場所で、長い年月を淡々と書き続けた記録である。英雄の物語にせず、地方の寺と荘園の側から見ると、何が起きていたかが見えてくる。

乱の前史は、室町幕府の仕組みにある。室町幕府の成立のあと、幕府は将軍のもとに有力な守護大名を集め、彼らを京都に住まわせて政治を動かした。足利義満の時代にその体制は頂点に達する。守護は地方の国々を預かりながら、自分は京都にいて、現地は守護代や家臣に任せていた。この「在京」が、幕府の秩序の土台だった。地方で荘園の秩序を乱す実力者は、鎌倉時代の終わりにはすでに現れていた。年貢を奪い、領主に従わない悪党の登場はその早い姿で、南北朝の動乱を経て、地方の武士は自分の力で土地を守ることに慣れていった。

将軍の権威は、乱の前から揺らいでいた。1428年の正長の土一揆では、近江の馬借をきっかけに畿内の民衆が借金の帳消しを求めて立ち上がった。1441年の嘉吉の乱では、六代将軍足利義教が播磨の守護赤松満祐の屋敷に招かれ、宴の最中に殺された。将軍が家臣に討たれても、幕府はすぐには手を打てなかった。八代将軍足利義政が継いだのは、こうした幕府だった。

火種はいくつもあった。管領を出す家である畠山氏では、畠山義就と畠山政長が家督を争っていた。同じく斯波氏でも家督争いがあった。将軍家では、子のいなかった義政が弟の義視を跡継ぎに立てたのち、正室の日野富子が義尚を産んだ。そこに、幕府の二大実力者である細川勝元と山名宗全の対立が重なる。かつては、富子がわが子を将軍にしようとして山名を頼ったことが乱の原因だと語られてきた。本はこの見方を、後世に書かれた軍記物『応仁記』の筋書きに引きずられたものとして退け、畠山氏の争いに大名たちが次々と加勢していった過程を重く見る。

1467年(文正2年)の正月、京都の上御霊社の森で、畠山政長と畠山義就の軍がぶつかった。御霊合戦である。義政は大名たちに、この争いに手を出すなと命じていた。山名宗全はそれを破って義就を助け、命令を守った細川勝元は、味方の政長を見殺しにする形になって面目を失った。五月、細川方が反撃に出て、京都の市中で両軍が衝突する。細川方は将軍の御所を押さえて東軍となり、山名方は堀川の西に陣を構えて西軍となった。京都の西陣という地名は、この西軍の陣に由来する。夏には周防の大内政弘が大軍を率いて上洛し、西軍に加わった。

ここで本は一つの逆説を示す。大名たちが京都に集まって暮らす仕組みだったからこそ、地方の家督争いがすぐに京都へ持ち込まれ、ほかの大名を巻き込む大戦になった。幕府の秩序を支えていた在京の体制が、そのまま戦火を広げる仕組みとしても働いたのである。

本が強調するのは、誰もこれほど長い戦争になるとは思っていなかった点である。山名宗全は、はじめは短期間で決着がつくと見込んでいたらしい。ところが双方とも決め手を欠き、京都の市街地に堀と土塁で囲んだ陣地を築いて睨み合うことになった。身軽な雑兵である足軽が使われ、放火と略奪が広がった。一条兼良は、のちに足軽の乱暴を厳しく非難する文章を残している。寺社も公家の屋敷も焼け、都の大半が焼け野原になったと言われる。

陣営の色分けも、途中で入れ替わった。将軍の弟の義視は、乱の初めには東軍の側にいたが、やがて伊勢へ逃れ、1468年の秋には西軍に迎え入れられた。西軍は義視を将軍のように立て、独自に命令を出した。京都に、将軍を名乗る者を抱えた陣営が二つ並んだことになる。何のために戦っているのかが分かりにくいのは、当事者たちにとっても同じだったのかもしれない。

戦いをやめる理由も、やめさせる力も、どこにもなかった。1473年、山名宗全が三月に、細川勝元が五月に、相次いで病死した。同じ年の暮れ、義政は将軍職を幼い義尚に譲った。翌年には山名と細川の当主どうしが和睦したが、畠山義就や大内政弘はなお戦いを続けた。京都での戦いが終わったのは1477年(文明9年)の11月、大内政弘が領国へ引き揚げ、西軍が解散したときである。講和の取り決めも、勝者の宣言もなかった。

奈良から見ると、乱は別の顔を持っていた。大乗院は各地に荘園を持ち、その年貢で成り立っていた。戦乱で、遠くの荘園からの年貢は届かなくなる。尋尊は日記に、どの荘園からいくら届いたか、届かなかったかを書き留め、どの大名がどちらの軍についたかの噂を記した。大和の国でも、筒井氏と、越智氏・古市氏らの国人が東西に分かれて争った。経覚は古市氏を頼ってその地に身を寄せた。京都の戦火を避けて、尋尊の父である一条兼良も奈良へ逃れてきた。日記には、中央の大事件と、寺の台所の心配が同じ紙に並んでいる。

乱が終わったあと、守護大名の多くは京都に戻らず、自分の領国に腰を据えた。京都にいても領国は守れないことを、11年で思い知ったからである。将軍のもとに大名が集まる体制は、ここで実質的に崩れた。領国では、守護代や国人が実力で主を押しのけることも起きた。1485年の山城国一揆では、南山城の国人たちが集まって、なお争い続ける畠山両軍に国外への退去を求め、その後8年にわたって自分たちで国を治めた。尋尊はこの出来事を、国人たちの集まりの様子まで日記に詳しく書き留めている。下の者が上の者を押しのける世の中が、奈良の僧の目の前に来ていた。1488年には加賀の一向一揆が守護を倒し、伊豆では北条早雲が自力で国を奪った。

京都の側では、義政は政治から離れ、東山に山荘を営んだ。銀閣と東山文化と呼ばれる文化は、焼け野原になった都のそばで育った。焼けた市中では、町に住む人々が自分たちで町を立て直し、乱で途絶えていた祇園祭も1500年に再び行われた。将軍や大名ではなく、町の人々が都の暮らしを支える担い手になっていく。戦国の世は、幕府に頼らずに自分で領国を治める大名たちの時代になる。1560年の桶狭間の戦いで名を上げた織田信長は、やがて城下で座の特権を否定する楽市楽座を出し、自らの手で市場の秩序を作った。応仁の乱が壊したものの上に、新しい秩序が積み上がっていった。

桶狭間の戦いに関わる図版:Bishū Okehazama-gassen
桶狭間の戦いWikimedia Commons Utagawa Toyonobu · Public domain

この本は新書として異例に売れ、数十万部に達したとされる。分かりやすい英雄譚ではないものが読まれた、ということ自体が話題になった。誰も止め方を知らないまま始まり、やめる理由が見つからないまま続く争いに、読者が何かを重ねたのかもしれない。一方で、奈良の僧の目を通して見ている以上、見えるのは寺と荘園に関わることに偏る。本自身もそれを承知のうえで、その偏りを手がかりに使っている。

この物語は、本が扱ったできごとを並べたものになる。本文は写していない。

動画(1)

【呉座勇一vs高橋弘樹】戦国時代を生んだ大乱!日本史の転換点、泥沼の11年戦争とは?ReHacQ−リハック−【公式】著者本人が、なぜこの分かりにくい戦乱を書いたかを話す

この物語が起きた場所

スペイン帝国明日本大越朝鮮王朝Itelmen大越ラオスアイヌモシリ毛利氏織田氏京都(3件) 悪党の登場 室町幕府の成立 応仁の乱3桶狭間(1件) 桶狭間の戦い安土(1件) 楽市楽座

できごと5件が起きた3か所。 同じ場所で何度も起きていれば、その数だけ大きくなります。国境はAD1577の版図(この枠に大きく入る11勢力)。 物語は何百年にもまたがるので、最後のできごとの年で描いています。人物・国と、場所の分かっていないできごと1件は出ていません。押すと、この物語だけに絞った地図が開きます。

筋(6)

年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。

  1. 日本国AD3〜4世紀ごろ(古墳時代の王権) – (続く)畿内の王権から律令国家になり、武士の時代を経て、近代に帝国として外へ広がり、敗戦で列島に戻った。政体は何度も変わるが、土地としては一本の連続になる。
  2. 悪党の登場できごとAD13世紀末〜14世紀地方の実力者が力を持つ流れ荘園の年貢を奪い、幕府の命令に従わない者たちが各地に現れた。悪人ではなく、商いと運送と山野の民が、既存の支配の枠に収まらなくなった姿になる。京都
  3. 室町幕府の成立できごとAD1338年前史幕府が京都に戻った。朝廷が南北に分かれ、60年争う。京都
  4. 応仁の乱できごと1467年全篇京都が11年焼かれ、幕府の権威が失われた。ここから100年の戦国時代に入る。京都
  5. 桶狭間の戦いできごとAD1560年6月12日結果としての戦国十倍の今川軍を奇襲で破った。無名の若い大名が、天下を目指す位置に立つ。桶狭間(位置は特定されていない)
  6. 楽市楽座できごとAD1577年座の特権と関所の通行料を廃し、誰でも商えるようにした。中世を通じて自治的だった市の自由を、大名が自分の城下に囲い込んだ、とも読める。安土

重なっているストーリー

同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。

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