人物

源頼朝

Minamoto no Yoritomo
AD1147年 – AD1199年(享年52・推定)
鎌倉幕府重要度 5

概要

平氏を倒し、鎌倉に武家政権を開いた。以後700年近く、武士が国を治める。

関わったできごと(4)

富士川の戦いAD1180年(治承4年)10月 · 勝った守護・地頭の設置AD1185年(文治元年)11月 · 認めさせた奥州合戦AD1189年(文治5年) · 攻めた鎌倉幕府の成立AD1192年 · 当人

本文

1147年、源義朝の三男として生まれた。母は熱田神宮の大宮司藤原季範の娘で、母の家柄がよかったため、兄たちを差し置いて嫡男として扱われた。父義朝は東国の武士を束ねる河内源氏の棟梁で、京都で朝廷に仕えていた。

甲斐善光寺所蔵の源頼朝坐像
甲斐善光寺所蔵の源頼朝坐像Wikimedia Commons 氏子 · CC0

1159年の保元・平治の乱で、父は藤原信頼と組んで兵を挙げ、平清盛に敗れた。頼朝はこのとき数えで13歳、初陣だった。東国へ落ちる途中で一行からはぐれ、捕らえられる。父は尾張で家人に殺された。頼朝も斬られるはずだったが、清盛の継母である池禅尼が助命を嘆願したと伝えられ、翌年、伊豆へ流された。池禅尼の亡き子に似ていたから、という話も残る。

流人の暮らしは20年に及んだ。伊豆の蛭ヶ小島が配所とされ、読経をして過ごしたと伝わる。この間に、土地の豪族北条時政の娘政子と結ばれた。平家の監視を受ける立場の時政にとって、流人を婿にするのは危険な選択だった。頼朝にとっては、この縁が東国で頼れる最初の足場になる。

絹本着色伝源頼朝像(神護寺蔵)[注釈 20]
絹本着色伝源頼朝像(神護寺蔵)[注釈 20]Wikimedia Commons Fujiwara no Takanobu · Public domain

1180年、後白河法皇の皇子以仁王が平家打倒を呼びかける令旨を出した。以仁王はすぐに討たれたが、令旨は諸国の源氏に届いていた。8月、頼朝は伊豆の目代山木兼隆を襲って挙兵する。ところが直後の石橋山の戦いで大庭景親の軍に大敗し、わずかな供と箱根の山中に逃れた。洞窟に隠れていたところを、敵方の梶原景時が見つけながら見逃した、という話が伝わる。後世の軍記物の脚色を含むとされるが、景時はのちに頼朝の側近となる。

頼朝は海を渡って安房へ逃れた。そこから房総の千葉常胤、上総広常ら大きな武士団を味方につけ、武蔵を経て、10月には数万の軍とともに鎌倉へ入った。鎌倉は、祖先の源頼義が八幡宮を祀った源氏ゆかりの地だった。同じ月、富士川の戦いで平家の追討軍は戦わずに退く。水鳥の羽音に驚いて逃げたという『平家物語』の場面はここである。

富士川の戦いに関わる図版:Yoshifuji-utagawa-rr213
富士川の戦いWikimedia Commons Yoshitora Utagawa · Public domain

頼朝はここで京都へ攻め上らなかった。東国の武士たちが、まず背後の常陸の佐竹氏を討つべきだと説き、頼朝はそれに従ったとされる。武士を統べる侍所を置き、所領を安堵し、手柄に土地で報いる仕組みを作った。主人と御家人が土地を介して結ばれる、この関係が鎌倉の政権の骨格になる。1183年には朝廷から東国の支配を認める宣旨を得た。

戦場へは、弟たちを送った。1184年、範頼と源義経は、先に京都に入って後白河法皇と対立していた源義仲を討ち、続いて一ノ谷の戦いで平家を破った。翌1185年、義経は屋島で、さらに壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼす。頼朝自身は鎌倉を一度も離れていない。

一ノ谷の戦いに関わる図版:Battle of Ichi-no-Tani Folding Screen by Kano School
一ノ谷の戦いWikimedia Commons Kano School · Public domain

その義経を、頼朝は追い詰めた。義経が頼朝の推挙を待たずに法皇から官職を受けたことが、対立のきっかけとされる。頼朝が最も警戒したのは、御家人が鎌倉を通さず朝廷と直接結びつくことだった。義経が法皇から頼朝追討の命令を引き出すと、頼朝は逆に大軍を京都へ送って法皇に迫り、1185年、義経の捜索を名目に守護・地頭の設置の権限を認めさせた。国ごとに軍事と警察を担う守護、荘園や公領ごとに年貢の取り立てを担う地頭が置かれ、鎌倉の力が全国に及ぶ道ができた。

身内にも容赦しなかった。挙兵を支えた上総広常は、1183年に謀反の疑いで殺された。1189年、奥州の藤原泰衡がかくまっていた義経を討つと、頼朝はかくまった罪を問うとして自ら大軍を率い、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼした。これが生涯でほぼ唯一、自分で出た遠征になる。のちには弟範頼も謀反の疑いで伊豆に流している。

奥州合戦に関わる図版:奥州高館大合戦
奥州合戦Wikimedia Commons 歌川芳虎 Utagawa Yoshitora (1836-1880) · Public domain

1190年に初めて上洛し、権大納言と右近衛大将に任じられたが、すぐに辞して鎌倉へ帰った。1192年、後白河法皇の死後に征夷大将軍に任じられる。鎌倉幕府がいつ成立したかは、どの権限の獲得を重く見るかで説が分かれ、1180年から1192年まで幅がある(鎌倉幕府の成立)。

京都から離れた鎌倉に政権を置き続けたことは、武士が都の貴族社会に取り込まれるのを避けるためだったと説明されることが多い。ただ頼朝自身は朝廷との関係を断ったわけではなく、晩年には娘の大姫を後鳥羽天皇の后にしようと働きかけている。大姫の病死で、この計画は実らなかった。

源頼朝、巻物、14世紀後半
源頼朝、巻物、14世紀後半Wikimedia Commons unknown (School of/style of: Fujiwara no Takanobu (藤原隆信)) · Public domain

1198年の暮れ、相模川の橋の落成供養の帰りに落馬し、翌1199年の1月に死んだ。数えで53歳。死因は、落馬のほかに病とする説もある。幕府の公式の記録である『吾妻鏡』は、ちょうど死の前後の数年が欠けていて、落馬の話も13年後の記事の中に出てくるだけである。この空白について、さまざまな推測がされてきた。

死後、家督は18歳の頼家が継いだが、実権はすぐに北条氏と御家人の合議に移った。頼朝の血筋は三代で絶える。それでも頼朝が作った、武士が土地を介して主従関係を結び、朝廷とは別に政権を持つという形は、北条氏の執権政治を経て室町、江戸の幕府に引き継がれ、明治維新まで700年近く続いた。

動画(1)

立ち上がれ!源頼朝 〜伊豆国での流人生活で踏み出した平家打倒への第一歩〜【COTEN RADIO #281】歴史を面白く学ぶコテンラジオ_COTEN RADIO伊豆の流人生活から挙兵までを扱う
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