保元・平治の乱
概要
貴族の争いが武士の力で決着した。武士なしでは政治が動かないことが誰の目にも明らかになる。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
本文
12世紀の朝廷では、位を譲った上皇が「治天の君」として実権を握る院政が続いていた(院政の開始)。上皇は院の御所を守らせるため、北面の武士を置き、伊勢平氏や河内源氏の武士を引き立てた。地方の反乱を鎮め、寺社の強訴を押し返す実力として、武士はすでに欠かせない存在になっていたが、身分はあくまで貴族に仕える者だった。
火種は、天皇家と摂関家の両方にあった。鳥羽法皇は長男の崇徳を嫌い、譲位させて幼い近衛天皇を立てた。1155年に近衛が10代で亡くなると、崇徳の子ではなく、崇徳の弟の後白河を天皇にした。崇徳は自分の系統が皇位から外されたことに強い不満を抱いた。摂関家でも、関白の藤原忠通と、父の忠実に愛された弟の頼長が激しく対立していた。1156年7月2日、鳥羽法皇が亡くなると、両方の対立が一つに重なり、崇徳と頼長が手を結び、後白河と忠通がこれに向き合う形になった。

両方の側が武士を呼び集めた。後白河の側には平清盛と源義朝がつき、崇徳の側には義朝の父の源為義と弟の為朝、清盛の叔父の平忠正がついた。親子・兄弟・叔父と甥が敵味方に分かれる戦いになった。7月11日の未明、義朝の進言で後白河方は崇徳方の籠もる白河北殿へ夜討ちをかけ、火を放った。戦いは数時間で終わる。頼長は流れ矢を受けて逃げる途中に死に、崇徳は讃岐へ流された。
戦後の処分は苛烈だった。後白河の側近の信西が主導し、捕らえた武士たちを斬った。為義は子の義朝の手で、忠正は甥の清盛の手で斬られた。朝廷が公に死刑を執行したのは、9世紀初めの薬子の変以来、およそ350年ぶりとされる。都の人々は、争いが血で決着する時代に入ったことを目の前で見せつけられた。

保元の乱のあと、朝廷の政治を動かしたのは信西だった。信西は清盛と結んで改革を進めたが、同じ後白河の側近の藤原信頼と、恩賞に不満を持つ義朝が、これに反発を強めた。1159年12月、清盛が熊野詣に出て都を留守にした隙に、信頼と義朝は兵を挙げ、後白河の御所を襲った。信西は都を逃れて山中に穴を掘って隠れたが、見つかる前に自害し、首は都でさらされた。これが平治の乱である。
知らせを受けた清盛は急いで都へ戻った。後白河は御所を抜け出し、幽閉されていた二条天皇も夜にまぎれて清盛の六波羅の屋敷へ逃れた。天皇は女房の装いで脱け出したと『平治物語』は語る。天皇を手に入れた清盛の側が官軍となり、信頼と義朝は朝敵になった。六波羅での戦いに敗れた義朝は東国へ落ちる途中、尾張で家人の長田忠致に裏切られて殺された。信頼も斬られた。

義朝の子どもたちの運命は分かれた。三男の頼朝は捕らえられたが、清盛の継母の池禅尼が命乞いをしたとされ、伊豆へ流された。幼い牛若、のちの義経は母とともに助けられ、鞍馬寺に預けられた。この二人が20年あまりのち、平氏を滅ぼすことになる(源頼朝)。
二つの乱で、源氏の有力者はほとんど姿を消し、武士の頂点には平清盛だけが残った。清盛はこの後、武士として初めて太政大臣にのぼり、娘を天皇の后に入れて、一門で高い官職を占めていく(平氏政権)。貴族の争いを決着させるために呼ばれた武士が、決着をつけた側の主役になったのである。

乱から60年ほど後、天台座主の慈円は歴史書『愚管抄』で、鳥羽院が亡くなったのち日本国の乱が起こり、それから後は「武者の世」になった、と書いた。慈円は摂関家の忠通の子で、乱を内側から見た家に生まれている。同時代の貴族自身が、保元の乱を時代の切れ目だと受け止めていたことになる。
この見方は今の歴史学にも引き継がれている。武士が政治の表に出る道筋は、ここから平氏政権、鎌倉幕府(鎌倉幕府の成立)へと続いていく。乱のいきさつは軍記物語の『保元物語』『平治物語』に描かれ、のちの『平家物語』とともに語り物として広まった(『平家物語』と琵琶法師)。物語には、為朝の強弓や義朝の最期など、後から加えられたと見られる場面も多く、史実を読むときは公家の日記と突き合わせる必要がある。