できごと

本能寺の変

Honnō-ji Incident
AD1582年6月21日
重要度 5
本能寺の変に関わる図版:Honnoj
Honnoj Wikimedia Commons Nobukazu Yōsai · Public domain

概要

統一を目前にして家臣の明智光秀に討たれた。動機はいまも定まらない。

場所

京都
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府

関わった人(3)

織田信長AD1534年–AD1582年6月21日 · 当人豊臣秀吉AD1537年–AD1598年 · この後に台頭する明智光秀AD1528年頃–AD1582年7月2日(天正10年6月13日) · 襲った

本文

天正10年6月2日(1582年6月21日)の夜明け前、明智光秀の軍勢が京都の本能寺を囲んだ。寺にいたのは織田信長と、小姓や供回りを合わせても、数十人から百数十人ほどだったとされる。対する明智勢は1万を超えていた。

その年の春、信長は甲斐に攻め込み、武田勝頼を滅ぼしていた。長年の宿敵だった武田氏が消え、東の脅威はほぼなくなった。西では豊臣秀吉が毛利氏の備中高松城を水攻めにしており、信長は自ら援軍に向かうつもりだった。四国の長宗我部氏にも、三男の信孝を総大将とする軍が渡る直前だった。天下統一は目前に見えていた。

Japan Keihan topographic map
Wikimedia Commons Soren Bradley · CC BY 4.0

光秀の前半生はよく分かっていない。美濃の土岐氏の流れをくむとされるが、確かな記録に現れるのは1560年代の後半からで、生年にも諸説ある。将軍足利義昭と信長のあいだを取り次ぐ立場から信長の家臣となり、比叡山の焼き討ちの後に近江の坂本城を与えられた。その後、何年もかけて丹波を平定し、信長から高く評価された。変の直前には、近江と丹波に領地を持ち、畿内の諸将を指揮する立場にあった。織田家でも指折りの重臣だった。

本能寺は法華宗の寺で、堀や土塁をめぐらした構えを持っていた。信長は上洛のたびに、ここや妙覚寺を宿所にしていた。5月29日、信長はわずかな供を連れて安土から京に入った。茶会を開き、公家たちの挨拶を受けている。家臣の大半は各地の戦線にいた。

太平記英勇伝壹:織田上総介信長(落合芳幾作)
太平記英勇伝壹:織田上総介信長(落合芳幾作)Wikimedia Commons Utagawa Yoshiiku · Public domain

光秀は5月、安土で徳川家康をもてなす役を務めた後、中国への出陣を命じられた。丹波亀山城を出た軍は、西へ向かうはずの道を東へ折れ、桂川を渡って京に入った。「敵は本能寺にあり」と叫んだという話はよく知られるが、これは江戸時代の軍記物に出てくる言葉で、後の脚色とされる。

寺内で物音に気づいた信長は、謀反だと知ると、相手が誰かを尋ねた。明智の者だと聞いて「是非に及ばず」と言ったと、家臣だった太田牛一の『信長公記』は記す。信長は弓を取り、弦が切れると槍で戦い、傷を負うと奥へ退いた。火が放たれ、信長はその中で自害したとされる。遺体は見つからなかった。近くの妙覚寺にいた嫡男の信忠も、移った二条の御所で攻められて自害した。織田家の当主と後継ぎが、一夜で同時に消えた。

明智光秀像(岸和田市本徳寺所蔵)
明智光秀像(岸和田市本徳寺所蔵)Wikimedia Commons 投稿者がファイル作成 · Public domain

光秀はすぐに近江へ向かい、安土城に入って城の財宝を家臣や味方に配った。朝廷の勅使も迎えている。しかし、頼りにしていた者たちは動かなかった。娘を嫁がせていた細川藤孝・忠興父子は髷を落として信長への弔意を示し、誘いを断った。大和の筒井順慶も最後は味方しなかった。順慶が洞ヶ峠で形勢をうかがったという「洞ヶ峠を決め込む」の話は、後の俗説とされる。

この後の展開は速い。高松城を囲んでいた秀吉は、変を知るとすぐ毛利と講和を結び、軍を返した。備中から山城まで約200キロを10日ほどで駆け戻り、「中国大返し」と呼ばれる。6月13日、山崎の戦いで光秀を破った。敗れた光秀は近江の坂本城へ逃れる途中、小栗栖で落ち武者狩りに討たれたと伝えられる。変から11日あまりで、光秀の天下は終わった。「三日天下」という言葉はここから来ている。

堺にいた家康は、わずかな供回りで伊賀の山道を抜けて三河へ逃げ帰った。命がけの脱出だったとされる。信長の死後、織田家の重臣が清洲に集まり、跡継ぎを信忠の幼い子の三法師と決めた。この場で主導権を握ったのは、仇を討った秀吉だった。翌年の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、秀吉は信長の後継者の地位を手に入れる。秀吉の天下統一はその延長にある。

賤ヶ岳の戦いに関わる図版:Battle of Shizugatake
賤ヶ岳の戦いWikimedia Commons Utagawa Toyonobu · Public domain

信長の遺体が見つからなかったことも、秀吉には都合が良かった。秀吉はその年の10月、京都の大徳寺で、遺体の代わりに木像を棺に納めて信長の盛大な葬儀を営んだ。織田家の人々を差し置いて喪主の役を務めたことは、自分こそが信長の後継者だと世に示す振る舞いだった。

光秀がなぜ謀反を起こしたかは、はっきりしていない。本人の言い分を残した史料がほとんど無いからだ。信長から受けた仕打ちを恨んだという怨恨説、自ら天下を狙ったという野望説、朝廷が背後にいたという説、追放された将軍足利義昭が指図したという説など、諸説が並んでいる。

Japan Kyoto city urban core topographic map
Wikimedia Commons Soren Bradley · CC BY 4.0

近年注目されているのが、四国政策をめぐる説だ。光秀は長宗我部元親との取り次ぎを担い、重臣の斎藤利三は元親と姻戚関係にあった。信長は当初、元親に四国の切り取りを認めていたが、のちに方針を変え、討伐へ転じた。2014年に公開された石谷家文書には、元親が信長の要求を一部受け入れる意向を示した手紙があり、光秀の立場が崩れていく様子がうかがえるとされる。ただし、これだけで謀反の理由を説明しきれるわけではなく、複数の要因が重なったと見る研究者も多い。

秀吉の帰還があまりに速かったため、事前に変を知っていたのではないかという推測もある。確かな証拠は無く、現在の研究では、毛利との講和交渉がすでに進んでいたことなどから説明されることが多い。

本能寺跡碑(京都市中京区)
本能寺跡碑(京都市中京区)Wikimedia Commons Saigen Jiro · CC0

本能寺の変は、統一事業の担い手を織田家から秀吉へ、さらにその先へ移す転換点になった。信長が生きていれば、という問いはいまも繰り返し立てられている。

動画(1)

「義弟が裏切った?ハッハッハ、またまたご冗談を。・・・。マジ?」信長包囲網で大ピンチ!【COTEN RADIO #193】歴史を面白く学ぶコテンラジオ_COTEN RADIOなぜ光秀が裏切ったのか、諸説を並べている

出典(1)

太田牛一 『信長公記』巻15

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