田沼時代

概要
足軽の子から老中になった田沼意次が、商人の株仲間を認めて運上金を取り、銅と俵物(干し鮑、ふかひれ)を専売し、印旛沼を干拓し、蝦夷地を調べさせ、南鐐二朱銀で貨幣を金本位に寄せた。賄賂と言われた。天明の飢饉、浅間山の噴火、息子意知の殿中での刺殺。1786年、失脚。松平定信が全部戻した。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
関わった人(1)
田沼意次AD1719年9月11日–AD1788年8月25日 · 老中本文
田沼意次は、1719年、江戸に生まれた。父の意行は紀州藩の足軽の身分から、藩主の徳川吉宗に仕えて、吉宗が将軍になると一緒に江戸へ出て旗本に取り立てられた人物である。意次は、のちの九代将軍家重の小姓として仕え始め、その信頼を得て出世を重ねた。家重が死の床で、息子の十代将軍家治に、意次は正直な者だから重く用いよと言い残したとも伝えられる。1767年に将軍の側近である側用人となり、1772年には老中を兼ねた。六百石の旗本の子が、五万七千石の大名にまで上ったのである。
意次が政治を握った時代、幕府の財政は苦しかった。年貢は米で納められるが、徳川吉宗の享保の改革で年貢を増やす余地はほぼ尽きていた。一方で、商業は大きく育ち、江戸や大坂の商人には富が集まっていた。田沼意次は、農民から取るのではなく、商業の富から幕府の収入を得ようとした。

そのために、商人の同業者の組合である株仲間を広く公認し、その代わりに運上金や冥加金という税を納めさせた。銅、鉄、真鍮、朝鮮人参などは、幕府の管理する「座」を作って取引を握った。長崎の貿易では、それまで金銀を流出させていた輸入の支払いに代えて、銅や、干し鮑、ふかひれ、いりこなどの海産物の俵物を中国へ輸出し、逆に金銀を輸入しようとした。
貨幣にも手を入れた。1772年に出した南鐐二朱銀は、銀でできていながら、金の単位で値打ちが決められた貨幣で、八枚で金一両と交換できた。江戸は金で、大坂は銀の重さで取引するという東西の違いを、金の単位にそろえていく試みである。また、下総の印旛沼と手賀沼の干拓に手をつけ、新しい田を開こうとした。北方では、ロシアの南下を説いた工藤平助の意見を受け、蝦夷地に調査の一行を送り、開発や交易の可能性を探らせている。1785年から翌年にかけての調査には最上徳内も加わり、千島列島の得撫島まで足を延ばした。ロシアとの交易まで視野に入れたこの計画は、意次の失脚とともに打ち切られた。
この時代は、文化の面でも自由な空気があった。『解体新書』が出て蘭学が盛んになり、平賀源内のような奇才が活躍した。江戸の町では、黄表紙や洒落本、浮世絵などの町人の文化が花開いた。一方で、役人と商人のつながりが深まり、意次の屋敷には贈り物を持った人が列をなした、という話が広まった。賄賂の政治という評判は、ここから生まれた。

しかし時代は、意次の味方をしなかった。1782年から天明の飢饉が始まり、とくに東北では多くの人が飢えて死んだ。1783年には浅間山が大噴火し、降り積もった灰が田畑をだめにした。1784年には、若年寄になっていた息子の意知が、江戸城の中で旗本の佐野政言に斬りつけられて死ぬ。米の値が高騰する中、江戸の人びとは佐野を「世直し大明神」ともてはやしたという。1786年には印旛沼の工事が大水で台無しになった。
1786年8月、将軍家治が亡くなると、意次は老中を辞めさせられた。領地の大半を取り上げられ、居城の相良城は壊された。1788年、意次は失意のうちに亡くなる。その前年から実権を握っていた松平定信は、意次の政策の多くを改めて、倹約と農業を重んじる寛政の改革を進めた。

領地の相良では、城下町の整備や産業の振興に力を入れたとされ、地元ではいまも郷土の名君として語られることが多い。意次は長いあいだ、賄賂にまみれた悪い政治家の典型とされてきた。しかしその評判の多くは、政敵の側が残した記録によるものだという指摘がある。商業の富に目を向けて財政を立て直そうとした点や、蘭学や北方への関心を開いた点を、時代を先取りした政策として評価し直す見方も、20世紀の後半から広がっている。