できごと

川中島の戦い

Battles of Kawanakajima
AD1561年10月18日(永禄4年9月10日)
重要度 5
川中島の戦いに関わる図版:BattleKawanakajima
BattleKawanakajima Wikimedia Commons after Katsukawa Shuntei (died in 1824) by Hiroshige (1797-1858) · Public domain

概要

信濃の北、千曲川と犀川の間で、武田信玄と上杉謙信が12年に5回戦った。1561年の4回目が最大。信玄は啄木鳥の戦法で別働隊を回し、謙信は霧の中で先に山を下りて本陣を突いた。謙信が単騎で信玄に斬りつけ、信玄が軍配で受けた、と伝える。両軍で数千が死に、どちらも勝たなかった。

場所

川中島
36.61°N 138.19°E · 長野県長野市

関わった人(2)

武田信玄AD1521年12月1日–AD1573年5月13日 · 軍配で受けた上杉謙信AD1530年2月18日–AD1578年4月19日 · 斬りつけた

本文

信濃の北部、千曲川と犀川が合流するあたりに、三角形の平野が広がっている。いまの長野市の南、川中島である。ここで甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が、12年の間に5回にわたって対陣した。戦国時代でいちばん有名な対決だが、大きな戦闘になったのは1561年の4回目だけで、ほかはにらみ合いと小競り合いに終わった。

二人の名は、のちの呼び名である。信玄は晴信といい、出家して信玄と号したのは1559年ごろ。謙信は長尾景虎として越後を継ぎ、1561年に関東管領上杉家の名跡を継いで上杉政虎と名乗り、謙信は後年の法号である。ここでは通りのよい名で書く。

Japan Joshinetsu topographic map
Wikimedia Commons Soren Bradley · CC BY 4.0

対立の始まりは、信玄の信濃攻めだった。1541年に父の信虎を駿河へ追放して甲斐の主となった晴信は、諏訪、伊那、佐久と信濃を南から切り取っていった。北信濃の有力な国衆、村上義清は一度は武田軍を破ったが、1553年に本拠を失い、越後の景虎を頼った。北信濃の豪族たちも次々に越後へ逃れた。景虎にとって、武田が北信濃を取れば、越後の国境のすぐ向こうに強大な敵が来ることになる。彼は失地回復を求める豪族たちの訴えを受けて、兵を出した。

第1回は1553年、第2回は1555年である。2回目には犀川を挟んで200日ほどにらみ合い、駿河の今川義元の仲介で兵を引いた。第3回の1557年も大きな戦いにはならなかった。その間に武田は北信濃の国衆を少しずつ従え、川中島の南の端に海津城(のちの松代城)を築いた。

山本勘助の死を描いた浮世絵(歌川国芳、1847〜48年)。策が破れたと考え自害した
山本勘助の死を描いた浮世絵(歌川国芳、1847〜48年)。策が破れたと考え自害したWikimedia Commons Utagawa Kuniyoshi · Public domain

1561年8月、謙信は約1万3000の兵を率いて越後を出て、海津城を見下ろす妻女山に陣を置いた。敵地の奥深くに入り込んだ大胆な布陣だった。信玄も約2万の兵で甲府を出て、海津城に入った。両軍は動かず、にらみ合いが続いた。

ここからの展開は、主に江戸時代初めにまとめられた武田方の軍学書『甲陽軍鑑』が伝えるものである。9月9日、信玄は軍師の山本勘助と重臣の馬場信春の策を採った。1万2000の別働隊が夜のうちに妻女山の背後へ回って上杉軍を襲い、驚いて山を下りてくる上杉軍を、信玄の率いる本隊8000が川中島の八幡原で待ち受けて挟み撃ちにする。啄木鳥がくちばしで木を叩き、驚いて飛び出した虫を食べるのになぞらえて、「啄木鳥の戦法」と呼ばれる。

第四次川中島の戦いで一騎打ちする謙信と信玄の伝説的場面
第四次川中島の戦いで一騎打ちする謙信と信玄の伝説的場面Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ところが謙信は、海津城から上がる炊煙がいつもより多いのを見て、武田軍が夜に動くと読んだという。上杉軍は夜のうちに音を立てずに山を下り、千曲川を渡って八幡原に出た。9月10日の朝、深い霧が晴れたとき、武田の本隊の目の前には、上杉の全軍が陣を構えていた。

不意を突かれた武田本隊は、別働隊が戻るまで持ちこたえるほかなかった。上杉軍は次々に新手を繰り出して攻めかかり、武田方は大きな損害を出した。信玄の弟で副将の武田信繁、重臣の諸角虎定が討ち死にした。献策した山本勘助も、責任を感じて敵中に突入し戦死したと伝えられる。

川中島の戦い(歌川国芳画、1843〜47年)
川中島の戦い(歌川国芳画、1843〜47年)Wikimedia Commons Utagawa Kuniyoshi · Public domain

このさなか、白い頭巾をかぶった騎馬の武者が信玄の本陣に躍り込み、床几に座る信玄に三度斬りつけ、信玄は軍配でこれを受けた、という有名な場面がある。武者は謙信その人だった、と『甲陽軍鑑』は語る。この一騎討ちは江戸時代の軍記や講談で大きく脚色され、絵にも描かれたが、確かな史料で裏づけられる話ではない。上杉方の記録には、斬りつけたのは家臣だったとするものもある。

昼近く、妻女山がもぬけの殻だったと知った武田の別働隊が八幡原に駆けつけ、上杉軍の背後を突いた。今度は上杉軍が挟まれる形になり、犀川を渡って善光寺方面へ退いた。『甲陽軍鑑』は、この日の死者を武田方4000余、上杉方3000余と記すが、数字の確かさは分からない。それでも、両軍に数千の死者が出た激戦だったことは確かと考えられている。

武田晴信(信玄)の肖像
武田信玄Wikimedia Commons Unknown · Public domain

勝ったのはどちらか。前半は上杉、後半は武田が押し、双方が自分の勝ちだと主張した。結果として、信玄は北信濃の大半を手中に収め、謙信は越後を守り抜いた。1564年の5回目は、再びにらみ合いで終わった。以後、両者が川中島で戦うことはなかった。

山本勘助は、長く架空の人物ではないかと疑われてきた。1969年、北信濃の市河家に伝わった文書の中に、信玄が「山本菅助」を使者に立てたと書いた書状が見つかり、同名の家臣が実在したことは確かになった。しかし彼が『甲陽軍鑑』の描くような軍師だったかどうかは、いまも分からない。啄木鳥の戦法も、霧の中の行軍も、同じ本の語りに頼っている。

12年にわたる対陣の間に、時代は動いていた。1560年、尾張の織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち、1568年には京に入った。信玄はようやく西へ向かい、1573年の三方ヶ原の戦いで徳川家康を破ったが、その年に陣中で病に倒れて死んだ。謙信も1577年に北陸で織田軍を破ったが、翌1578年、春日山城で急死した。二人とも、京に旗を立てることはできなかった。

桶狭間の戦いに関わる図版:Bishū Okehazama-gassen
桶狭間の戦いWikimedia Commons Utagawa Toyonobu · Public domain

川中島で二人の名将が北信濃の小さな平野を争っている間に、天下は別の者の手に移りつつあった。信玄の死の2年後、跡を継いだ武田勝頼は長篠の戦いで織田と徳川の鉄砲に敗れる。川中島は、何も決めなかった戦いとして、そして戦国でいちばん語り継がれた戦いとして残った。謙信が敵の信玄に塩を送ったという話も、江戸時代以降に広まった美談で、史実かどうかは確かめられていない。

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