人物

明智光秀

Akechi Mitsuhide
AD1528年頃 – AD1582年7月2日(天正10年6月13日)(享年54・推定)
織田氏重要度 5

概要

美濃の出と言うが、前半生は分からない。朝倉、足利義昭、そして信長。坂本城、丹波。連歌と茶。1582年6月2日、本能寺。「敵は本能寺にあり」は後の言葉。理由は諸説。怨恨、野望、朝廷、四国。11日後、山崎で負け、小栗栖で竹槍。娘の玉(ガラシャ)が細川忠興の妻。

所属

織田氏

関わったできごと(2)

山崎の戦いAD1582年7月2日(天正10年6月13日) · 負けた本能寺の変AD1582年6月21日 · 襲った

本文

明智光秀の前半生は、ほとんど分かっていない。美濃の土岐氏の一族である明智氏の出とされ、1528年生まれというのが通説だが、確かな史料はなく、1516年生まれとする記録もある。斎藤道三が子の義龍に討たれた1556年の争いで道三方についた明智一族が滅ぼされ、光秀は美濃を出た、と後の軍記物は伝える。越前の朝倉義景のもとに身を寄せていたとされるが、その期間の暮らしぶりも、軍記物以外にはほとんど手がかりがない。

明智光秀の肖像
明智光秀の肖像Wikimedia Commons Gameposo · Public domain

光秀の名が確かな史料に現れるのは、1568年前後である。将軍家を追われた足利義昭が越前の朝倉氏を頼り、やがて美濃の織田信長を頼って上洛する。その仲立ちをしたのが光秀だった、と伝えられる。義昭が将軍になると、光秀は義昭の家臣でありながら信長の家臣としても働き、京の政務を担った。二人の主に同時に仕える、珍しい立場だった。

1571年、信長が比叡山を焼き討ちにすると、光秀はその戦いで働き、近江の志賀郡を与えられて坂本城を築いた。琵琶湖のほとりの壮麗な城で、宣教師ルイス・フロイスも安土城に次ぐものと書いている。1573年、義昭が信長に背いて追放されると、光秀は信長の側に残った。1575年には朝廷から惟任の姓と日向守の官を与えられる。

小国政『東錦改画の魁 小栗栖の露』。敗走中に小栗栖で落ち武者狩りに遭遇する光秀を描く。
小国政『東錦改画の魁 小栗栖の露』。敗走中に小栗栖で落ち武者狩りに遭遇する光秀を描く。Wikimedia Commons Utagawa Kunimasa V · Public domain

続く仕事が丹波の攻略だった。丹波の国衆は手強く、光秀は一度は味方の裏切りで敗走しながら、足かけ5年をかけて平定した。1579年、丹波を落とし、翌年には一国を与えられて亀山城を本拠とした。1580年、信長は重臣の佐久間信盛を追放する際の折檻状で、光秀の丹波での働きを「天下の面目をほどこし」と称えている。家臣団の筆頭格として、1581年の京での馬揃えの運営も任された。光秀は自らの家中に軍法を定め、福知山などの城下を整えた。今も福知山では領民思いの領主として語られている。

光秀は武人であると同時に教養人だった。連歌に通じ、茶の湯をたしなみ、公家とも親しく交わった。細川藤孝(幽斎)とは長く行動を共にし、娘の玉をその子の忠興に嫁がせている。

西教寺にある明智光秀とその一族の墓
西教寺にある明智光秀とその一族の墓Wikimedia Commons 投稿者が撮影 · Public domain

1582年5月、光秀は安土で徳川家康をもてなす役を務めていたが、途中で役を解かれ、備中で毛利と戦う豊臣秀吉の援軍に向かうよう命じられた。5月28日、光秀は京の愛宕山で連歌の会を開き、「ときは今あめが下しる五月かな」と発句を詠んだ。「とき」に土岐氏を、「あめが下しる」に天下を治めることを読み取る解釈は、事変の後に広まったものである。

6月1日の夜、光秀は1万3000ほどの兵を率いて亀山城を出た。「敵は本能寺にあり」という言葉は、百年ほど後の軍記『明智軍記』などに見えるもので、実際に言ったかどうかは分からない。6月2日の明け方、軍は京の本能寺を囲んだ。わずかな供回りしか連れていなかった信長は自害し、妙覚寺から二条御所に移った嫡男の信忠も死んだ。これが本能寺の変である。

本能寺の変に関わる図版:Honnoj
本能寺の変Wikimedia Commons Nobukazu Yōsai · Public domain

なぜ光秀が主君を討ったのかは、今も決着していない。古くからあるのは怨恨説で、家康の接待の不手際を責められた、丹波を取り上げられて敵地の出雲・石見を与えると言われた、などの話が挙げられるが、多くは後世の軍記物に出てくるものである。天下を取ろうとした野望説、朝廷や足利義昭、果ては秀吉や宣教師が背後にいたとする黒幕説もある。近年有力になったのが四国説で、光秀が取り次ぎをしていた土佐の長宗我部元親に対して信長が方針を一転させ、攻撃を決めたことで光秀の立場が失われた、というものである。2014年に公表された石谷家文書がその裏付けとして注目された。いずれにせよ、単一の理由で説明しきれるものではないだろう。

事変から1週間後の6月9日、光秀が細川藤孝・忠興父子に宛てた自筆の手紙が残っている。そこで光秀は、味方になってくれれば摂津や但馬・若狭を与えると約束し、自分がこのたびのことを起こしたのは忠興らを取り立てるためだ、と書いた。そして、50日か100日のうちに近国を固めたら、あとは子の十五郎(光慶)や忠興に政治を譲って自分は身を引く、と続けている。天下を取るための周到な計画があったとは思えない、追い詰められた調子の手紙である。

明智光秀首塚、首はこの地に埋められたと伝えられる。のちに五重石塔が作られ首塚として知られる。『兼見卿記』に記録された箇所にも概ねあたる。京都市東山区三条通白川橋下る東側
明智光秀首塚、首はこの地に埋められたと伝えられる。のちに五重石塔が作られ首塚として知られる。『兼見卿記』に記録された箇所にも概ねあたる。京都市東山区三条通白川橋下る東側Wikimedia Commons mariemon · CC BY 3.0

光秀は京を押さえ、朝廷や諸大名に味方を呼びかけたが、頼みにした細川藤孝・忠興父子は剃髪して応じず、大和の筒井順慶も動かなかった。秀吉は毛利と急いで和睦し、驚くべき速さで引き返してきた。6月13日、山崎の戦いで光秀は敗れた。その夜、近江の坂本へ落ちる途中、山城の小栗栖で落ち武者狩りの農民に竹槍で襲われて死んだと伝えられる。信長を討ってから11日。「三日天下」という言い回しはここから来ている。

娘の玉は、洗礼を受けてガラシャと名乗った。1600年、関ヶ原の戦いの直前、石田三成が大坂にいる諸大名の妻子を人質に取ろうとしたとき、彼女はこれを拒み、家臣の手にかかって死んだ。光秀は長く主君殺しの逆臣とされたが、近年は有能な行政官、教養ある武将として見直されつつある。

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