由井正雪
概要
駿河の紺屋の子と言う。江戸で楠木流の軍学を教え、門人3000人。慶安の変。駿府で囲まれて自害した。幕府は遺書を「まったくの偽り」と言ったが、翌年、末期養子を認めた。歌舞伎と講談の主人公になった。「慶安太平記」。
関わったできごと(1)
由井正雪の乱AD1651年(慶安4年) · 計画した本文
由井正雪の前半生は、ほとんど分かっていない。広く知られている生い立ちの多くは、事件のあとに書かれた実録物や講談、のちの歌舞伎の脚色に由来する。それによれば、1605年頃、駿河の由比、あるいは駿府の紺屋(染物屋)の子として生まれ、若くして江戸に出たという。

江戸で彼は軍学者になった。伝えられるところでは、楠木正成の流れをくむと称する楠木流の軍学者・楠木不伝に入門し、その娘婿となって道場を継いだ。不伝の死には正雪が毒を盛ったという噂まであるが、これも物語の中の話である。確かなのは、彼が神田連雀町に「張孔堂」と名乗る軍学の塾を開き、評判を集めたことだ。張孔堂の名は、漢の張良と蜀の諸葛孔明という二人の軍師から取ったとされる。門人は数千人に上ったと言われ、浪人だけでなく、大名の家臣や旗本も出入りしたという。
その背景には、浪人の群れがあった。江戸幕府の成立の成立から半世紀、幕府は大名の家を次々に取り潰した。跡継ぎのいないまま大名が死ねば家は断絶し、家臣はみな職を失う。とりわけ、死の間際に急いで養子を立てる「末期養子」が禁じられていたことが、改易を増やしていた。家光の時代までに取り潰された大名は100を超え、町には20万とも40万とも言われる浪人があふれていたという。戦が無くなった世で、武芸と軍学しか持たない男たちの行き場は乏しかった。島原の乱にも多くの浪人が加わっていた。

1651年4月、3代将軍徳川家光が死に、11歳の家綱が後を継いだ。幼い将軍の代替わりを好機と見て、正雪は浪人たちと幕府転覆を計画した、とされる。後の記録が伝える計画は大がかりなものだ。江戸では槍の名手・丸橋忠弥が幕府の火薬庫を爆破して火を放ち、混乱に乗じて江戸城に入って将軍を奪う。正雪は駿府で久能山の家康の霊廟と金蔵を押さえ、京と大坂でも同時に兵を挙げる。
計画は実行される前に漏れた。仲間の密告によって、7月23日、丸橋忠弥が江戸で捕らえられた。このとき正雪はすでに江戸を発って駿府に入っていた。7月25日、駿府の町奉行の手勢が、正雪の泊まる宿・梅屋を取り囲んだ。正雪は翌26日の未明、仲間とともに自害した。47歳ほどだったとされる。大坂にいた仲間の金井半兵衛も自害し、丸橋忠弥は江戸で磔になった。正雪の家族や仲間の一族も多くが処刑された。

正雪が残したとされる遺書には、幕府の政治が乱れ、浪人が困窮していることを嘆き、天下のためにそれを正そうとしたのだという主旨が書かれていたと伝わる。幕府はその内容を偽りと退けた。正雪の荷物からは紀州藩主・徳川頼宣の名の入った書状が見つかり、頼宣は疑いをかけられた。書状は偽造とされたが、頼宣は長く江戸に留め置かれ、紀州へ帰ることを許されなかった。家康の子という血筋と剛直な気性で知られた頼宣が、浪人の人気を集めていたことも疑いを招いたと言われる。
反乱そのものは一人の兵も挙げずに終わった。だが、事件は幕府の政治を変えた。家綱を補佐した保科正之や松平信綱らは、浪人問題が幕府を揺るがしかねないことを悟った。同じ1651年の12月、幕府は末期養子の禁を緩め、50歳未満の大名であれば、死の間際でも養子を届け出れば家の存続を認めることにした。大名の取り潰しは目に見えて減り、新たな浪人も減っていく。力で抑えつける武断の政治から、法と儀礼で治める文治の政治へと移る転換点の一つとして、この事件は教科書にも記される。翌1652年にも浪人による老中襲撃の計画が発覚しており(承応の変)、浪人の不満がすぐに消えたわけではなかった。

正雪の名は、事件の謎めいた輪郭ゆえに、物語の中で生き続けた。江戸時代には実録物『慶安太平記』が写本で広く読まれ、講談で語られた。幕府をはばかって名前を変えた芝居も作られ、明治に入ると、1870年に河竹黙阿弥が歌舞伎に仕立てた。中でも、酔ったふりをした丸橋忠弥が江戸城の堀に石を投げ込み、水音で深さを測る場面はよく知られている。正雪は、天下を狙った野心家としても、浪人の窮状を代弁した義人としても描かれ、その像は時代ごとに揺れてきた。