概要
駿河の紺屋の子と言う。江戸で楠木流の軍学を教え、門人3000人。慶安の変。駿府で囲まれて自害した。幕府は遺書を「まったくの偽り」と言ったが、翌年、末期養子を認めた。歌舞伎と講談の主人公になった。「慶安太平記」。
関わったできごと(1)
由井正雪の乱AD1651年(慶安4年) · 計画した本文
1605年、駿河の由比(あるいは岡部)。紺屋の子と言う。江戸へ出て、楠木流の軍学者楠木不伝の弟子になり、不伝が死ぬと(毒殺したという噂)、その娘婿になって道場を継いだ。神田連雀町の張孔堂(張良と孔明)。門人3000人と言う。大名の家臣、旗本も来た。紀州の徳川頼宣が後ろ盾だ、という噂があった。
1651年、慶安の変。7月23日、丸橋忠弥が江戸で捕まった。密告者は仲間の奥村八左衛門。正雪は駿府にいた。25日、宿の梅屋を町奉行に囲まれ、26日の朝、自害した。47歳。仲間9人も。
遺書。「幕府の政治が悪い。浪人が飢えている。私は幕府を倒して天下を正すつもりだった」。頼宣の書状を持っていた(偽物とされ、頼宣は10年江戸に留め置かれた)。
丸橋忠弥は磔。正雪の妻と一族は処刑、または磔。金井半兵衛は大坂で自害。
反乱は起きなかった。しかし幕府は変わった。12月、末期養子の禁が緩められた。50歳未満の大名は、死ぬ間際でも養子を届ければ、家が続く。改易が減った。浪人が減った。
正雪は、幕府に反逆して、幕府の政策を変えた。歌舞伎『慶安太平記』(1870年、河竹黙阿弥)で、丸橋忠弥が酔って堀の深さを測る場面が有名。