人物

徳川秀忠

Tokugawa Hidetada
AD1579年5月2日 – AD1632年3月14日(享年52)
江戸幕府重要度 3

概要

家康の三男。関ヶ原に遅れた(上田で真田に足止め)。2代将軍。妻は江(市の三女、淀殿の妹)。江を恐れた、と言われる。父の死後、福島正則を改易し、弟忠輝を流し、娘和子を後水尾天皇に入れた。武家諸法度、禁中並公家諸法度。地味で堅い。大御所として家光を見て、死んだ。

関わったできごと(2)

江戸幕府の成立AD1603年 · 2代武家諸法度AD1615年8月30日(元和元年7月7日) · 名で

本文

1579年、遠江の浜松で、徳川家康の三男として生まれた。母は側室の西郷局である。幼名は長丸(長松)。この年の秋、家康の長男・信康は、織田信長との関係の中で自害に追い込まれた。次男の秀康は、のちに秀吉の養子に出され、さらに下総の結城家を継ぐ。こうして三男の秀忠が、家康の跡継ぎの位置に立つことになった。

徳川秀忠の肖像
徳川秀忠の肖像Wikimedia Commons The author creates a file. · Public domain

1590年、12歳の秀忠は京に上って豊臣秀吉に会い、その一字をもらって秀忠と名乗った。事実上の人質でもあった。1595年、秀吉の取り計らいで、江(ごう)を妻に迎えた。江は浅井長政とお市の三女で、姉の茶々は秀吉の側室の淀殿である。母お市が柴田勝家とともに北ノ庄で死んだあと、三姉妹は秀吉のもとで育てられていた。江は秀忠より6歳年上で、これが三度目の結婚だった。

江は千姫、珠姫、勝姫、初姫、家光、忠長、和子の二男五女を産んだ。秀忠は江をはばかって側室を置かなかったと言われ、ただ一人の庶子・保科正之は、江に知られないようにひそかに育てられ、信濃高遠の保科家の養子になった。もっとも「恐妻家の秀忠」という像には、後世の話も多く混じっている。

1600年、家康が会津の上杉を討つために下野まで進んだところで、石田三成が挙兵した。家康は東海道を西へ取って返し、秀忠には3万8000の兵を預けて中山道を進ませた。秀忠は途中、信濃の上田城に籠もる真田昌幸を攻めた。昌幸と次男の信繁(真田信繁(幸村))はわずかな兵でよく守り、秀忠は城を落とせないまま数日を費やした。悪天候で川が増水したこともあって、9月15日の関ヶ原の戦いに、秀忠の大軍は間に合わなかった。家康は激怒し、数日の間、秀忠に会おうとしなかったと伝えられる。重臣の榊原康政のとりなしで、ようやく対面が許されたという。

関ヶ原の戦いに関わる図版:Sekigaharascreen
関ヶ原の戦いWikimedia Commons User LordAmeth on en.wikipedia Collection of The Town of Sekigahara Archive of History and Cultural Anthropology · Public domain

それでも跡継ぎは秀忠と決まった。1603年に家康が将軍になって江戸幕府の成立を開くと、わずか2年後の1605年、家康は将軍の職を秀忠に譲った。将軍の地位は徳川家が代々継ぐものだ、と天下に示すためだった。秀忠は10万を超える大軍を率いて上洛し、伏見城で将軍に任じられた。

ただし実権は、駿府に移って「大御所」と呼ばれた家康が握り続けた。江戸の秀忠と駿府の家康という二元の政治の中で、秀忠は父の決めたことを着実に実行する役を担った。1614年と1615年の大坂の陣では、秀忠も大軍を率いて出陣した。大坂城が落ちると、豊臣秀頼と淀殿は自害した。秀頼に嫁いでいた秀忠の娘・千姫は、城から救い出された。

大坂の陣に関わる図版:Osakarakuzyou (cropped)
大坂の陣Wikimedia Commons Utagawa Yoshitora · Public domain

1615年には、大名を統制する武家諸法度が秀忠の名で発布され、朝廷と公家を縛る禁中並公家諸法度が定められた。翌1616年に家康が死ぬと、秀忠は名実ともに天下の主となった。

家康の死後の秀忠は、父の存命中には見せなかった厳しさを示した。弟の松平忠輝を改易して流し、1619年には、広島城を無断で修築したとして、関ヶ原以来の功臣・福島正則の領地を取り上げた。1622年には、家康の側近として権勢を振るった本多正純も失脚させている。秀忠の代に改易された大名は40家を超え、外様だけでなく一門や譜代も容赦されなかった。キリスト教の禁制も強め、1622年には長崎で多くの宣教師や信徒が処刑された。

徳川秀忠像(德川記念財団蔵)
徳川秀忠像(德川記念財団蔵)Wikimedia Commons Unknown (A painter of the Kanō school ) · Public domain

朝廷に対しても、秀忠は徳川の力を刻みつけた。1620年、娘の和子(まさこ)を後水尾天皇のもとに入内させ、和子はのちに中宮となった。さらに、天皇が僧に紫の衣を許す権限を幕府が制限し、これに反発した高僧たちを処罰した紫衣事件で、後水尾天皇は1629年、幕府に相談なく突然譲位した。即位したのは和子の産んだ数え7歳の娘で、明正天皇となる。奈良時代の称徳天皇以来、859年ぶりの女性の天皇であり、徳川の血を引く天皇だった。

1623年、秀忠は将軍の職を長男の徳川家光に譲り、自らは江戸城の西の丸に移って大御所として実権を握り続けた。家康が自分にしたことを、そのまま家光に繰り返したのである。秀忠と江は、聡明な次男の忠長を愛したとも言われ、家光の乳母の春日局が家康に直訴して、家光が跡継ぎに定まったという話が伝わっている。

1613年に英国船クローブ号でジョン・セーリスが来日した際に、英国王ジェームズ1世への返礼に秀忠が贈った甲冑のひとつ。ロンドン塔蔵。
1613年に英国船クローブ号でジョン・セーリスが来日した際に、英国王ジェームズ1世への返礼に秀忠が贈った甲冑のひとつ。ロンドン塔蔵。Wikimedia Commons PHGCOM · Public domain

1626年に江が死んだ。1632年、秀忠は江戸城西の丸で死んだ。54歳だった。墓所は江戸の芝の増上寺にある。秀忠が死ぬと、家光はほどなく弟の忠長を改易し、忠長は翌年、自害に追い込まれた。

秀忠は、華やかな逸話に乏しい将軍である。関ヶ原の遅参ばかりが語られ、偉大な父と、「生まれながらの将軍」を名乗った息子に挟まれて、影が薄い。だが、家康が力で作った幕府を、法と人事と婚姻によって制度の形に固めたのは、20年近く将軍と大御所を務めた秀忠だった。律儀で謹直な人柄だったと伝えられ、その地味さこそが、二代目の仕事にかなっていたとも言える。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1579年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →