鉄砲伝来
概要
ポルトガル人が種子島に漂着した。数十年で日本は世界有数の鉄砲保有国になり、戦の形が変わる。
場所
30.55°N 130.95°E · 日本・鹿児島県
本文
16世紀の半ば、東アジアの海は、国の決まりの外で動く商人たちのものだった。明は民間の海外貿易を禁じていたが、密貿易はかえって盛んになり、中国人や日本人の混じった海の商人たちが、武装して交易と略奪を繰り返していた。倭寇と呼ばれる人々である。そこへ、インドのゴアやマラッカを拠点に東へ進んできたポルトガル人が加わった。
1543年、ポルトガル人を乗せた中国船が種子島の南端に漂着した。島の役人は、船に乗っていた明の人と、砂の上に杖で字を書いて筆談した。その人物は五峯と名乗ったと記録されており、のちに倭寇の頭目として知られる王直のことだとする説が有力である。船にはポルトガル人が二人いて、手に持った筒から火を噴かせ、遠くの的を撃ち抜いてみせた。

この話を伝えるのは、60年あまり後の1606年に、種子島氏に頼まれて禅僧の南浦文之が書いた『鉄炮記』である。それによれば、16歳の島主種子島時尭は、その威力に驚いて、二挺を大金で買い取った。一挺を手本に、刀鍛冶に複製させた、と伝わる。
いちばん苦労したのは、銃身の底をふさぐ尾栓だった。ねじで留める仕組みだったが、当時の日本には雄ねじと雌ねじを切る技術がなかった。鍛冶が娘を差し出して、その作り方をポルトガル人から教わったという話が残るが、これは後世の脚色とされる。翌年にまたポルトガル人が来た際に、鍛冶の一人がねじの作り方を学んだと『鉄炮記』は書いている。

この出来事を「鉄砲伝来」と呼んできたが、細部には議論がある。ポルトガルの冒険家メンデス・ピントは、のちに書いた旅行記の中で、自分こそ種子島に鉄砲をもたらした一人だと語っているが、この旅行記には誇張や作り話が多く、そのまま信じる研究者は少ない。ポルトガル側の記録では、日本に着いた年を1542年とするものがある。また、倭寇の交易の道筋を通じて、種子島より前から東南アジア製の火縄銃が日本に入っていたとする説もあり、一度に一か所から伝わったのではなく、複数の経路があったと考える研究者も多い。
種子島の火縄銃は、ほどなく本土へ渡った。紀伊の根来寺の僧兵、和泉の商業都市堺、近江の国友村が、鉄砲づくりの中心になった。堺の商人たちは原料と製品を売買して富を蓄え、のちに織田信長が堺を押さえたのも、鉄砲と火薬の流れを握るためだった。1549年にはフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し(ザビエルの来日)、キリスト教とともにポルトガルとの交易が本格化する。

普及の速さが異常だった。数十年で、日本は世界有数の鉄砲保有国になる。理由として挙げられるのは、砂鉄から刀を作る鍛冶の層が厚かったこと、戦国で需要が切れなかったこと、そして硝石を輸入する交易路があったことになる。鉄砲そのものは国内で作れたが、火薬の原料の硝石は日本ではほとんど採れず、大半を中国や東南アジアからの輸入に頼った。弾に使う鉛も同じで、戦国時代の遺跡から出た鉛の弾を分析すると、タイの鉱山の鉛が混じっていることが分かっている。鉄砲を使う戦は、海の交易に支えられていた。
戦い方も変わった。弓に比べて、鉄砲は扱いを覚えるのが早い。何年も修練を積んだ武士でなくても、足軽が短い訓練で使える。雨に弱く、一発撃つたびに火薬と弾を込め直す手間がかかるが、まとまった数をそろえれば、騎馬の突撃を止めることができた。城の造りも、鉄砲の弾を防ぐ厚い土塀や石垣、射撃のための狭間を備えたものに変わっていった。
1575年の長篠の戦いでは、織田・徳川の連合軍が馬防柵の内側に大量の鉄砲隊を並べ、武田の騎馬隊を退けた。三千挺の鉄砲を千挺ずつ三段に分け、入れ替わりに撃たせたという「三段撃ち」の話は、江戸時代初めの読み物から広まったもので、信長の家臣が書いた記録では鉄砲の数は千挺ほどとされ、三段の記述も無い。三段撃ちは後世の脚色を含むが、戦の形が変わったこと自体は動かない。

鉄砲の普及は、職人と商人の町を育てた。国友村では、のちに数十の鍛冶の家が鉄砲づくりを分業で担い、銃身を鍛える者、からくりを作る者、台木を削る者が分かれていった。注文に応じて同じ規格の銃を大量に作るための工夫が、ここで積み重ねられた。
その後の天下統一の戦い、そして豊臣秀吉の朝鮮出兵でも、鉄砲は大きな役割を果たした。朝鮮の側は、日本軍の鉄砲の威力に驚き、のちに捕らえた日本兵から鉄砲の技術を学んでいる。1637年の島原の乱では、立てこもった一揆の側も多くの鉄砲で幕府軍に抵抗した。

江戸時代に入ると生産は縮小した。大きな戦がなくなり、幕府は鉄砲の製造と売買を統制し、鍛冶たちは幕府や大名の注文で作るだけになった。必要がなくなれば、技術は保たれない。19世紀に欧米の船が来たとき、日本の鉄砲は300年前とほとんど変わらない火縄銃のままだった。
日本人は鉄砲を「捨てた」と言われることがある。ただし、それは言い過ぎだとする見方が強い。武士の表向きの武器は刀のままだったが、農村には、猪や鹿などの害獣を追い払うための鉄砲が数多く残り、幕府もそれを把握して管理していた。消えたのは鉄砲ではなく、鉄砲を使う戦争だった。