島津家久
概要
島津義弘の子。関ヶ原で西軍だった父の跡を継ぎ、幕府に認められて初代の薩摩藩主。1609年、幕府の許可を得て琉球へ兵を送った。琉球を「異国」として残し、朝貢を続けさせ、その利を取った。江戸で死んだ。(同名の叔父の家久=義弘の弟は、耳川と沖田畷の名将で、1587年に死んでいる。)
所属
薩摩藩関わったできごと(1)
薩摩の琉球侵攻AD1609年4月5日(慶長14年3月) · 攻めた本文
島津家久は、江戸時代の初めに薩摩藩の初代藩主となった大名である。初めの名は忠恒といった。関ヶ原で西軍についた島津家を一寸の領地も削られずに生き残らせ、1609年には琉球王国に兵を送って支配下に置いた。琉球を「異国」のまま残して中国との貿易を続けさせる仕組みは、彼の時代に形づくられ、260年にわたる薩摩の財政と琉球の運命を決めた。なお、同じ「家久」の名を持つ叔父(父義弘の弟)は戦国時代の名将で、1587年に死んでいる。二人はしばしば混同される。
1576年、島津義弘の三男として生まれた。島津家の当主は伯父の義久だったが、義久には男子が無く、家の跡継ぎは義弘の子の中から出ることになっていた。長兄は幼くして死に、跡継ぎとされた次兄の久保は、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に従って1593年に朝鮮で病死した。こうして忠恒が後継に定まり、伯父義久の娘亀寿と結婚して、島津家の嫡流を継ぐ形を整えた。慶長の役では父とともに朝鮮へ渡り、1598年の泗川の戦いで明と朝鮮の大軍を破っている。

豊臣政権の末期、島津家の内部では、秀吉と結んで力を伸ばした重臣伊集院忠棟が勢力を誇っていた。1599年、忠恒は京都伏見の屋敷で忠棟を自らの手で斬った。忠棟の子忠真は日向の庄内で兵を挙げ、1年近い内乱になった。徳川家康の仲介で忠真は降ったが、1602年、忠恒は狩りの場で忠真を討たせている。家中の対抗勢力を、手荒なやり方で取り除いたのである。
1600年の関ヶ原の戦いで、父義弘はわずかな兵で西軍についた。敗戦が決まると、義弘は敵の大軍の正面を突き破って戦場を離れ、多くの家臣を失いながら薩摩へ帰り着いた。「島津の退き口」として語り継がれる撤退である。このとき忠恒は国元にいた。島津家は国境の守りを固めながら徳川家康と粘り強く交渉し、2年後の1602年、忠恒が上洛して家康に会い、領地をそのまま認められた。西軍として戦った大名で、領地をまったく削られなかったのは島津家だけである。遠く離れた南の大名を力で屈服させる手間と危うさを、家康が嫌ったためとみられる。1606年、忠恒は家康から名の一字を与えられて家久と改めた。

家久の名を歴史に刻んだのは、琉球への出兵である(薩摩の琉球侵攻)。琉球王国は明に朝貢する独立国で、秀吉の時代から島津家に従うよう求められていたが、応じきってはいなかった。1609年、家久は幕府の許しを得て、樺山久高を大将に3000人ほどの兵と100隻ほどの船を送った。鉄砲を備えた薩摩の兵は奄美の島々を抜け、沖縄本島に上陸すると、ひと月足らずで首里城を開かせた。国王尚寧王は鹿児島へ連れて行かれ、駿府で家康に、江戸で将軍秀忠に会わされた。1611年、尚寧王は島津家に従うことを誓う起請文を書かされ、ようやく国に帰ることを許された。
家久は琉球を滅ぼさなかった。奄美の島々は薩摩が直接治める土地にしたが、沖縄本島から南には琉球王国をそのまま残し、明への朝貢も続けさせた。明は日本との直接の貿易を禁じており、琉球が明の冊封を受けた独立国として朝貢を続ければ、その船を通じて中国の生糸や薬種を手に入れることができたからである。琉球は表向き独立した王国として中国に仕え、裏では薩摩に年貢を納める、二重の立場に置かれた。のちに幕府が海外との行き来を絞ったとき(鎖国の完成)、外の世界との窓口は長崎のほかに、対馬を通した朝鮮、松前を通したアイヌ、そして薩摩を通した琉球の四つになった。

藩主としての家久は、鹿児島に新しい城を築き、領内の検地を行って藩の石高を固めた。島津家は鎌倉時代以来この地を治めてきた家で、家臣の数がきわめて多く、のちの時代には領民の4分の1ほどが武士身分だったといわれる。シラス台地の痩せた土地で多くの家臣を養う薩摩の財政は、初めから苦しかった。伯父義久が1611年に死ぬまでは、義久・義弘・家久の三人が並び立つ形で家中は落ち着かず、家久は妻の亀寿を遠ざけ、側室の子光久を跡継ぎに定めた。
1638年、家久は江戸で病死した。63歳だった。九州では島原の乱の鎮圧が大詰めを迎えていたころである。

家久が作った仕組みは、彼の死後も長く生き続けた。琉球からの年貢と中国貿易の利益、そして奄美の黒砂糖は、借金にあえぐ薩摩の財政を支え続けた。19世紀の前半、家老の調所広郷は、500万両に達した藩の借金を250年の分割払いにして事実上踏み倒し、奄美の砂糖の専売を厳しくし、琉球を通した密貿易で稼いで財政を立て直した。その蓄えが、幕末の島津斉彬の洋式工場や、薩英戦争の後の軍備の近代化、ひいては倒幕の力になった。ただし琉球と奄美の側から見れば、それは重い年貢と砂糖の取り立てに苦しめられた歳月でもあった。琉球の二重の立場は、明治政府が王国を廃して沖縄県を置いた1879年の琉球処分まで続いた。