人物

徳川家康

Tokugawa Ieyasu
AD1543年 – AD1616年(享年73・推定)
江戸幕府重要度 5

概要

関ヶ原に勝ち、260年続く体制を作った。待つことで勝った人。

関わったできごと(8)

姉川の戦いAD1570年7月30日(元亀元年6月28日) · 朝倉を崩した三方ヶ原の戦いAD1573年1月25日(元亀3年12月22日) · 逃げ帰った長篠の戦いAD1575年6月29日(天正3年5月21日) · 共に小牧・長久手の戦いAD1584年5月18日(天正12年4月9日) · 長久手で勝った関ヶ原の戦いAD1600年10月21日 · 東軍 · 総指揮江戸幕府の成立AD1603年 · 当人大坂の陣AD1615年6月4日(慶長20年5月8日) · 囲んだ武家諸法度AD1615年8月30日(元和元年7月7日) · 作らせた

本文

1543年、三河の岡崎城に、松平広忠の子として生まれた。幼名は竹千代。松平家は東の今川と西の織田に挟まれた小さな国人で、3歳のとき、母は実家が織田方についたために離縁されて去った。

徳川家康の肖像
徳川家康の肖像Wikimedia Commons Kanō Tan'yū · Public domain

6歳で今川への人質に出されたが、途中で家臣に裏切られて織田方へ送られた。2年ほど尾張で過ごしたのち、人質交換で今川の駿府へ移り、19歳まで暮らす。織田と今川のあいだを行き来し、自分の意思で動けない時間が長い。駿府では今川家の重臣の娘を妻に迎え、元服もした。人質とはいえ、教育は受けている。

1560年の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、混乱に乗じて岡崎へ戻った。2年後、信長と同盟を結ぶ。三河の一向一揆では家臣の多くが一揆の側についたが、鎮めたあと、背いた家臣の多くを許して戻している。1566年に徳川と名を改めた。

桶狭間の戦いに関わる図版:Bishū Okehazama-gassen
桶狭間の戦いWikimedia Commons Utagawa Toyonobu · Public domain

家臣団の結束は、のちの天下取りの元手になった。酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の四人は、のちに徳川四天王と呼ばれる。三河の武士たちは、人質時代に主君のいない国を守り抜き、今川の下で冷遇に耐えたとされる。一揆の側についたあと許されて戻った本多正信は、のちに家康の知恵袋になった。

信長との同盟は、戦国の世では珍しく20年続いた。姉川の戦いでは援軍を出し、1573年の三方ヶ原の戦いでは武田信玄に大敗して、浜松城へ逃げ帰った。このとき恐怖で漏らしたという話や、敗戦の顔を描かせて戒めにしたという「しかみ像」の話は有名だが、後世の付会とする研究がある。長篠の戦いでは信長とともに武田勝頼を破った。1579年には、正室の築山殿と長男の信康を死に追いやっている。信長の命令だったと伝わるが、家中の対立が原因とする見方もあり、真相ははっきりしない。

三方ヶ原の戦いに関わる図版:Battle of Mikatagahara
三方ヶ原の戦いWikimedia Commons Utagawa Yoshitora · Public domain

1582年の本能寺の変のとき、家康は少数の供と堺にいた。伊賀の山中を抜けて三河へ逃げ帰った「伊賀越え」は、生涯最大の危機とされる。信長の死後、1584年の小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉と戦い、局地戦では勝ったが、最後は上洛して臣従した。1590年、北条氏が滅びると関東へ移され、江戸を本拠にする。先祖の地を離れる大きな国替えだったが、黙って従った。

秀吉が死ぬと、五大老の筆頭として力を広げた。1600年の関ヶ原の戦いで石田三成らの西軍を破る。57歳である。1603年に征夷大将軍となり、江戸幕府の成立を開いた。将軍職は2年で息子の徳川秀忠に譲っている。将軍が世襲であることを早く示して、また戦国に戻る余地を消すためとされる。自らは駿府に退いて大御所と呼ばれ、実権は握り続けた。

関ヶ原の戦いに関わる図版:Sekigaharascreen
関ヶ原の戦いWikimedia Commons User LordAmeth on en.wikipedia Collection of The Town of Sekigahara Archive of History and Cultural Anthropology · Public domain

この戦いは、家康が会津の上杉景勝を討つため東へ向かった隙に、三成が大坂で兵を挙げたことに始まる。下野の小山で引き返すと決めた家康は、豊臣恩顧の大名たちを味方につけ、9月15日、美濃の関ヶ原で東西の両軍が向き合った。戦いは半日で決着し、西軍の小早川秀秋の寝返りが勝敗を分けたとされる。もっとも、寝返りの時刻や家康が鉄砲を撃ちかけて催促したという有名な場面は、近年の研究で疑われている。

江戸の町づくりもこのころ本格化した。入江を埋め立てて町人の住む土地を作り、川の流れを変え、飲み水を引く上水を整えた。のちに世界でも有数の大都市になる江戸は、湿地の多い城下町から始まっている。

1614年、豊臣家が建てた方広寺の鐘の銘文に、家康の名を分断する呪いがあると難癖をつけ、大坂の陣を起こした。冬と夏の二度の戦いで大坂城は落ち、秀頼と淀殿は自害した。かつての主家を、最後は力で滅ぼしている。

大坂の陣に関わる図版:Osakarakuzyou (cropped)
大坂の陣Wikimedia Commons Utagawa Yoshitora · Public domain

作った仕組みは、大名を潰さずに縛るものだった。大坂の陣の直後、武家諸法度で城の新築と勝手な婚姻を禁じ、大名の居城を一国に一つに限った。朝廷と公家にも法度を定めている。のちの参勤交代の制度化で妻子を江戸に置かせ、往復に財を使わせる形が完成するのは孫の徳川家光の代だが、方向はこのとき決まっていた。戦って勝ち続けるより、戦えなくする設計になっている。

1616年、駿府で死んだ。73歳。鯛の天ぷらを食べて体調を崩したという話は有名だが、死まで3か月ほどあり、胃の癌とする見方が多い。遺言により久能山に葬られ、翌年日光へ移されて東照大権現として祀られた。

岡崎城天守
岡崎城天守Wikimedia Commons Evelyn-rose · CC0

人柄は慎重で倹約家だったと伝わる。若い頃から薬を自分で調合し、鷹狩りで体を鍛えた。「鳴かぬなら鳴くまで待とう」の句は後世の人が三人の天下人を比べて作ったもので、本人の言葉ではない。その体制は260年続いた。長すぎたことの代償は、幕末に一気に来る。

学問と書物を好み、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』を愛読したと伝わる。木製や銅製の活字で書物を刷らせ、伏見版・駿河版と呼ばれる出版を後押しした。漂着したイギリス人ウィリアム・アダムズを外交の相談役として用い、三浦按針の名と領地を与えている。東南アジアとの朱印船貿易を盛んにする一方、晩年にはキリスト教を禁じ、のちの鎖国の完成につながる方向を開いた。

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