豊臣秀吉
概要
農民から天下人になった。刀狩と検地で身分を固定し、晩年は朝鮮へ出兵する。
所属
日本関わったできごと(9)
侘び茶の大成AD1580年頃 · 庇護し、そして死を命じた本能寺の変AD1582年6月21日 · この後に台頭する山崎の戦いAD1582年7月2日(天正10年6月13日) · 大返し太閤検地AD1582年(天正10年)〜 · 命じた賤ヶ岳の戦いAD1583年6月11日(天正11年4月21日) · 勝った小牧・長久手の戦いAD1584年5月18日(天正12年4月9日) · 講和で刀狩令AD1588年8月29日(天正16年7月8日) · 出した秀吉の天下統一AD1590年 · 当人文禄・慶長の役1592年 · 命令本文
1537年、尾張の中村に生まれたとされる。1536年生まれとする説もある。父は織田家の足軽とも農民ともいわれ、出自ははっきりしない。のちに天下人となってから、母が宮中に仕えていた頃に天皇の落とし子として生まれたという話まで作らせている。

少年の頃に家を出て、針を売り歩いたとも伝えられ、遠江の今川家の家臣松下之綱に仕えたのち、尾張に戻って織田信長に仕えた。草履取りとして信長の草履を懐で温めていたという話や、美濃攻めで一夜のうちに城を築いたという話は、江戸時代の読み物で広まったもので、史料では確かめられない。確かなのは、低い身分から仕え始め、目端の利く働きで頭角を現したことである。
1573年、浅井氏を滅ぼした功で北近江を与えられ、長浜に城を築いた。この頃、木下から羽柴へと名字を改めている。織田家の重臣丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつもらったと伝わる。1577年からは中国地方の毛利氏の攻略を任された。播磨の三木城では兵糧を断って城兵を飢えさせ、因幡の鳥取城でも同じ手で降伏させた。備中の高松城は周囲に堤を築いて水攻めにした。
1582年の本能寺の変のとき、その備中にいた。信長の死を知ると、それを伏せたまま毛利氏と急いで講和を結び、大軍を返して京都へ向かった。およそ200キロを10日足らずで戻り、6月13日の山崎の戦いで明智光秀を破った。「中国大返し」になる。

その速さが、後継争いを決めた。主君の仇を討った者として、織田家の今後を決める清洲の会議で発言力を持ち、信長の幼い孫を当主に立てて自ら後見の立場に就いた。翌1583年、対立した柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破る。同じ年、大坂に巨大な城を築き始めた。1584年には徳川家康と小牧・長久手で戦い、戦場では苦戦したが、和睦に持ち込んで家康を臣従させた。
1585年、武家として初めて関白になり、翌年には豊臣の姓を朝廷から与えられた。将軍ではなく朝廷の最高位の官職を得て、その権威で諸大名に戦いをやめるよう命じた。1587年に九州を平定し、同じ年にキリスト教の宣教師に国外退去を命じた。1590年、関東の北条氏を小田原で降し、続いて東北の大名を従わせて、全国の統一を成し遂げた(秀吉の天下統一)。

やったことで大きいのが、太閤検地と刀狩になる。全国の田畑を統一した基準の物差しと枡で測り、その土地の米の生産高を石高で表した(太閤検地)。一つの土地に、そこを実際に耕す農民一人を年貢を納める者として登録し、荘園の時代から重なり合っていた中間の権利を整理した。大名の領地も石高で示されるようになり、軍役の負担もそれで決まった。
1588年には、農民から刀や槍、鉄砲を取り上げる命令を出した(刀狩令)。名目は、集めた武器を大仏殿の釘にして、農民をあの世まで救うというものだった。続いて、武士が農民や町人になること、農民が田を捨てて商売や奉公に出ることも禁じた。この二つで、武士と農民が分けられたとされる。もっとも、刀狩の後も村には多くの刀が残っていたことが分かっていて、身分の分け方がどこまで徹底したかには議論がある。

自分が上がってきた道を、自分で塞いだことになる。
茶の湯を好み、千利休を重く用い、1587年には京都の北野で誰でも参加できる大茶会を開いた。黄金の茶室を作らせたのも彼である。だが1591年、利休に切腹を命じた。理由ははっきりしない。
晩年、朝鮮へ二度出兵した(文禄・慶長の役)。1592年の最初の出兵では、日本軍は短期間で漢城(ソウル)と平壌を落としたが、朝鮮の水軍と義兵の抵抗、明の援軍に阻まれ、講和交渉に入った。交渉が決裂すると、1597年に再び兵を送った。出兵の理由については、明の征服を本気で考えていたとする説から、恩賞として与える土地が国内で尽きたという説、海外との交易を握ろうとしたとする説まである。朝鮮の国土は荒れ果て、多くの人が殺され、日本へ連れ去られた。

身内の運にも恵まれなかった。最初の子鶴松は3歳で死に、甥の秀次に関白を譲った。その後、側室の淀殿が秀頼を産むと、秀次に謀反の疑いをかけて切腹させ、その妻子三十数人を京都の三条河原で処刑した。
1598年8月、伏見城で死んだ。62歳だった。死の前、徳川家康ら五人の大老に、幼い秀頼の行く末をくれぐれも頼むと書き残している。露と生まれ露と消える我が身であり、大坂でのことも夢の中の夢だ、という意味の辞世が伝わる。朝鮮にいた軍は、その死を伏せたまま引き揚げた。

2年後の関ヶ原の戦いで家康が実権を握り、豊臣家は1615年に滅ぶ。それでも、彼が作った石高の仕組みと身分の区分は、江戸幕府にそのまま受け継がれた。農民の子から天下人になった生涯は、江戸時代には読み物として、近代以降は出世の物語として、くり返し語られてきた。