できごと

院政の開始

Cloistered rule
AD1086年
重要度 3
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概要

天皇を退いた上皇が実権を握る。摂関家の力が落ち、やがて武士が政治の表に出てくる下地になる。

場所

京都
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府

本文

11世紀の前半、藤原道長と頼通の父子の時代、朝廷の政治は藤原氏の摂政・関白が握っていた(摂関政治の頂点)。その力の源は、娘を天皇の后に入れ、生まれた皇子を天皇に立て、その外祖父として幼い天皇に代わって政治を執ることにあった。だからこの仕組みは、藤原氏の娘に皇子が生まれ続けなければ成り立たない。頼通の娘には皇子が生まれなかった。

1068年、藤原氏を母に持たない後三条天皇が即位した。宇多天皇以来、およそ170年ぶりのことである。後三条は摂関家に遠慮せず、大江匡房ら学識のある中級の貴族を登用した。翌1069年には荘園整理令を出し、記録荘園券契所という役所を置いて、証拠の書類の無い荘園を取り上げた。摂関家の荘園も例外ではなかった。後三条は在位4年で退位し、翌年に世を去る。

白河上皇の御幸。『春日権現験記』より。
白河上皇の御幸。『春日権現験記』より。Wikimedia Commons 高階隆兼(模写:板橋貫雄) · Public domain

後を継いだ息子の白河天皇は、1086年、わずか8歳の我が子堀河天皇に位を譲り、自らは上皇となった。表向きの理由の一つは、自分の血筋に皇位を確実に伝えることにあった。父の後三条は、白河の後には白河の異母弟たちを立てるよう望んでいたとされる。白河は早く我が子を位に就け、自分が後ろから支えることで、弟の系統を退けたのである。

上皇は天皇の父として、天皇家の家長としてふるまった。上皇の住まいである院には院庁という役所が置かれ、上皇の命令を伝える院宣が出された。天皇は朝廷の儀式や先例に縛られて自由に動けないが、退位した上皇にはその制約が無い。好きな者を側近に取り立て、寺社に参詣し、思うままに人事に口を出すことができた。

もっとも、1086年の時点で白河上皇がすぐに全権を握ったわけではない。関白の藤原師通がしっかり政務を見ていた間は、上皇の口出しは限られていた。1099年に師通が若くして死に、1107年に堀河天皇も死んで、白河の孫の5歳の鳥羽天皇が即位すると、上皇の力は誰にも遮られないものになった。院政の始まりをいつとするかは、研究者によって見方が分かれる。

白河上皇のまわりには、院近臣と呼ばれる人々が集まった。多くは国司として地方に赴き、富を蓄えた中級の貴族、受領たちである。彼らは上皇に寺の造営や御所の費用を差し出し、見返りに豊かな国の国司の地位を得た。荘園も、摂関家ではなく院に寄進されるようになった。院は日本で最大の荘園の持ち主になっていく。

白河上皇はおよそ43年にわたって、堀河・鳥羽・崇徳の3代の天皇の上に立った。『平家物語』は、上皇が自分の意のままにならないものとして、賀茂川の水と双六の賽と比叡山の僧兵の3つを挙げたと伝える。逆に言えば、それ以外はすべて意のままになったということである。

その比叡山や奈良の興福寺の僧たちは、神輿や神木を担いで都に押しかけ、要求を通そうとした。強訴である。上皇はこれを防ぐため、武士の力を頼った。御所の北側に詰めて院を守る「北面の武士」を置き、伊勢平氏の平正盛・忠盛の父子や、東国で名を上げた源義家の一族を取り立てた(源義家)。武士は貴族の番犬から、院の権力を支える実力へと育っていった。

1129年に白河上皇が死ぬと鳥羽上皇が院政を引き継ぎ、さらにその後を後白河が継いだ。院政は形を変えながら、鎌倉時代の末まで続くことになる。だが院政には、天皇の父である上皇と、位に就いている天皇との間に争いの種を抱えるという弱点があった。

1156年、鳥羽上皇が死ぬと、その子の崇徳上皇と後白河天皇が対立し、摂関家の兄弟の争いも絡んで、両者が武士を集めて戦った。保元の乱である。3年後の平治の乱では、後白河上皇の近臣どうしが争い、やはり武士が戦った(保元・平治の乱)。朝廷の争いの決着が、武士の刀でつけられるようになったのである。二つの乱の勝者の側に立ち続けた平清盛は、武士として初めて太政大臣に上り、娘を天皇の后にして、摂関家と同じやり方で権力を握った(平氏政権)。

摂関家を押さえるために上皇が呼び込んだ武士が、やがて上皇をも押さえ込むことになる。平氏が倒れたあと、源頼朝は鎌倉に武士の政権を開き(鎌倉幕府の成立)、1221年の承久の乱では、幕府を倒そうとした後鳥羽上皇が敗れて隠岐に流される。院政の始まりは、天皇の家が自らの手に政治を取り戻そうとした試みであり、同時に、武士の時代の扉を開く一歩でもあった。

動画(1)

044院政の開始 日本史ストーリーノート第06話Historia Mundi ムンディ先生高校の日本史を200講で通す講義の第44講「院政の開始」

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