桶狭間の戦い

概要
十倍の今川軍を奇襲で破った。無名の若い大名が、天下を目指す位置に立つ。
場所
35.06°N 136.98°E · 日本・愛知県(正確な戦場に諸説ある)
関わった人(1)
織田信長AD1534年–AD1582年6月21日 · 織田側 · 総指揮本文
16世紀半ば、駿河・遠江・三河の三国を治める今川義元は、東海道で最も大きな大名だった。北の武田、東の北条とは婚姻で結んで背後を固め、西の三河の松平家も事実上の家臣にしていた。その西隣の尾張では、織田家が一族の内輪もめを続けていた。父の信秀を亡くした織田信長は、家督を継いでからの数年間、弟や一族と争い、尾張の統一もまだ終わりきっていなかった。
義元は後の世の物語で、お歯黒をつけ輿に乗った公家かぶれの大名として描かれることが多い。しかしそれは、敗れた側に後から貼られた像である。実際の義元は、父の代からの分国法『今川仮名目録』に追加の条文を定め、検地を行い、商人や職人を保護して領国の支配を固めた、手堅い大名だった。東海道で最も強い武将という意味で「海道一の弓取り」と呼ばれたとも伝えられる。

尾張と三河の境では、両家が城を奪い合っていた。今川方は鳴海城と大高城を押さえ、織田方はそれを囲むように丸根、鷲津などの砦を築いて、二つの城を孤立させようとしていた。永禄3年(1560年)5月、義元は自ら大軍を率いて駿府を発った。
この出陣は、長く「上洛して天下に号令するため」と説明されてきた。いまでは、包囲された鳴海・大高の両城を救い、尾張の東部を押さえるための出陣だったとする見方が有力である。率いた兵は2万5千ほどとされることが多い。信長の家臣だった太田牛一の『信長公記』は4万5千と書くが、これは多すぎるとみられている。迎え撃つ信長の手元で動かせた兵は、2千から3千ほどだったとされる。

5月18日の夜、今川方の先鋒を務めた三河の松平元康、後の徳川家康は、大高城に兵糧を運び入れた。元康は幼いころから今川家の人質として駿府で育った、まだ10代の若者だった。19日の明け方、元康らは丸根砦を、別の部隊は鷲津砦を攻め落とした。
清洲城でその知らせを聞いた信長は、幸若舞の「敦盛」の「人間五十年」のくだりを舞い、具足を着けて城を飛び出したと『信長公記』は伝える。熱田神宮で兵が集まるのを待ち、善照寺砦、中島砦と前へ進んだ。家臣たちは数の差を恐れて止めたが、信長は聞かなかった。

昼ごろ、義元の本隊は桶狭間山の辺りで休息していた。朝の砦の勝利の報を受け、陣中では祝いの気分があったとも伝えられる。そこへ激しい雨が降った。『信長公記』によれば、石や氷を投げつけるような雨で、雨が上がると同時に信長の軍が突っ込んだ。義元の旗本は崩れ、義元は輿を捨てて退いたが、織田方の服部小平太が槍をつけ、毛利新介が首を取った。
この戦いが「奇襲」だったかどうかは、議論が続いている。信長が大きく山を回り込み、谷で休む今川本陣の背後を突いたという話は、江戸時代の軍記物や明治の陸軍がまとめた戦史を通じて広まったもので、より信頼できる『信長公記』には、迂回したとは書かれていない。そのため近年は、正面から今川の前線へぶつかり、雨と混乱の中で本陣にまで突き入ったとする見方が強い。戦場の正確な場所も、名古屋市緑区と豊明市の双方に古戦場の伝承地があって定まっていない。
確かなのは、信長が大将の首だけを狙い、それを取ったことである。大軍は頭を失うと動けなくなる。今川軍は総崩れとなり、駿河へ退いた。義元の跡を継いだ氏真は、父の仇を討つことができなかった。
最も大きく動いたのは、三河である。大高城にいた元康は、今川軍が去った後の岡崎城に入り、今川家から離れて自立した。1562年には信長と同盟を結ぶ。東を元康に任せた信長は、西と北へ力を向けられるようになり、1567年に美濃を取り、翌年には足利義昭を奉じて京へ上った。今川家は弱り続け、1568年からの武田と徳川の攻撃で、戦国大名としては滅んでいる。
尾張の一大名にすぎなかった信長の名は、この一戦で知られるようになった。その後の信長は、桶狭間のような少数での賭けをほとんどしていない。長篠の戦いでは大軍と鉄砲を用意し、勝てる形を作ってから戦った。