できごと

壇ノ浦の戦い

Battle of Dan-no-ura
AD1185年4月25日
重要度 4
壇ノ浦の戦いに関わる図版:AntokuTennou Engi.7&8 Dannoura Kassen
AntokuTennou Engi.7&8 Dannoura Kassen Wikimedia Commons Tosa Mitsunobu · Public domain

概要

平氏が海に沈み、幼い安徳天皇も亡くなった。三種の神器のうち剣は失われたと伝わる。

場所

壇ノ浦
33.96°N 130.96°E · 日本・山口県下関市

関わった人(1)

源義経AD1159年–AD1189年6月15日(文治5年閏4月30日) · 勝った

本文

寿永2年(1183年)、木曽義仲の軍が北陸から都に迫ると、平氏は都を捨てて西へ逃れた。このとき平氏は、数えで6歳の安徳天皇と、皇位のしるしである三種の神器を伴っていた。都では後白河法皇が別の孫を天皇に立てたが(後鳥羽天皇)、神器は手元に無い。天皇が二人並び立ち、本物の神器は西の平氏の側にある、という状態が2年近く続くことになる。

平氏は瀬戸内の水軍を味方につけ、一時は勢いを取り戻した。だが翌寿永3年(1184年)2月、摂津の一ノ谷で源氏の軍に大敗する。指揮したのは源頼朝の弟、源義経だった。平氏は讃岐の屋島に本拠を移したが、元暦2年(1185年)2月、義経はわずかな兵で嵐の海を渡って屋島を背後から襲い、平氏を海へ追い落とした(屋島の戦い)。

屋島の戦いに関わる図版:Battle of Yashima Folding Screens Kano School
屋島の戦いWikimedia Commons Kano School · Public domain

平氏の最後の拠点は、長門の彦島だった。本州と九州を隔てる関門海峡の入口にある島で、平清盛の四男・平知盛がここを守っていた。九州には義経の兄・源範頼の軍が渡っており、平氏は陸の逃げ場を失っていた。義経は瀬戸内の水軍を味方に引き入れ、船の数で平氏を上回った。

3月24日(西暦では1185年4月25日)、両軍は壇ノ浦で向き合った。鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』は、源氏の船を840余艘、平氏の船を500余艘とする。『平家物語』はもっと多い数を挙げるが、どちらも確かな数とは言えない。

Japan West relief location map
Wikimedia Commons Soren Bradley · CC BY 4.0

この海峡は潮の流れが速いことで知られる。午前中は東へ流れる潮が平氏に有利に働き、平氏が源氏を押した。昼を過ぎて潮の向きが変わると、今度は源氏が潮に乗って攻め返し、平氏が崩れた。そう説明されることが多い。この潮流による説明は、大正時代の歴史学者が唱えて広まったもので、その後、実際の潮の速さや向き、合戦の時刻をもとに、これを疑う研究も出ている。潮の変化がどれほど勝敗を決めたのかは、はっきりしていない。

確かなのは、戦いの途中で平氏の側から寝返りが出たことである。四国の阿波の水軍を率いていた田口成良(阿波民部重能)が源氏に付き、平氏の作戦を明かしたと『平家物語』は書く。天皇や身分の高い者を粗末な兵船に乗せ、雑兵を立派な唐船に乗せて源氏を欺こうとしていたが、それが知られて、源氏は大将たちの乗る船を狙った、という筋である。九州や四国の武士たちも次々に源氏に従った。

Dannoura
Wikimedia Commons No machine-readable author provided. Usiwakamaru assumed (based on copyright claims). · Public domain

敗れが明らかになると、清盛の妻で安徳天皇の祖母にあたる二位尼(平時子)は、神器の剣を腰に差し、神璽(勾玉)を抱え、幼い天皇を抱いて海に入った。『平家物語』では、どこへ行くのかと尋ねる天皇に、二位尼が「浪の下にも都のさぶらふぞ」と慰めて沈んだ、と語られる。安徳天皇は数えで8歳、満で6歳だった。母の建礼門院徳子も身を投げたが、源氏の兵に髪をかけられて引き上げられた。

平氏の武将たちも次々に入水した。総大将の平宗盛は海に入ったものの泳いで浮かんでいるところを捕らえられ、のちに鎌倉へ送られた後、京へ戻される途中で斬られた。知盛は「見るべき程の事は見つ」と言い残し、鎧を二重に着て沈んだと『平家物語』は書く。

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Wikimedia Commons Takasunrise0921 · CC BY 2.5

三種の神器のうち、鏡は船に残っていて回収され、勾玉の箱は海に浮かんで拾い上げられた。剣だけは、いくら探しても見つからなかった。宮中の剣は、熱田神宮にある草薙剣の分身とされてきたもので、それが海に沈んだことになる。後鳥羽天皇はこの剣が無いまま在位し、後に伊勢神宮から献じられた剣が代わりに用いられるようになった。

戦いの後、義経は都で英雄として迎えられたが、兄の頼朝とたちまち対立し、追われる身になる。頼朝はこの年の秋、義経を捕らえることを名目に、全国に守護と地頭を置く権限を朝廷に認めさせた。武家が全国の治安と土地を握る仕組みの始まりで、ここから鎌倉幕府が形を整えていく(鎌倉幕府の成立)。

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Wikimedia Commons Usiwakamaru · Public domain

平氏が一門で海に沈んだ物語は、琵琶法師の語りによって全国に広まった(『平家物語』と琵琶法師)。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と始まる『平家物語』である。安徳天皇は、実は生き延びて落ちのびたという伝説が西日本の各地に残る。壇ノ浦に近い下関の赤間神宮は、安徳天皇を祀る社である。負けた側の物語がこれほど広く語り継がれた例は、日本の歴史でも珍しい。

動画(2)

048 源平の争乱 日本史ストーリーノート第06話Historia Mundi ムンディ先生高校の日本史を200講で通す講義の第48講「源平の争乱」
嗚呼、諸行無常。壇ノ浦の戦い 〜栄華を誇った平家の滅亡と幼き安徳天皇の壮絶な今際〜【COTEN RADIO #283 】歴史を面白く学ぶコテンラジオ_COTEN RADIO平家物語の語りと、記録に残る経過を分けて話している

出典(1)

編者未詳(鎌倉幕府) 『吾妻鏡』元暦二年三月

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