柴田勝家
概要
信長の弟の側について信長に負け、赦されて筆頭家老。「鬼柴田」「かかれ柴田」。北陸方面軍。越前北ノ庄。清洲会議で秀吉に負け、市を娶り、賤ヶ岳で負け、北ノ庄で市と自害した。市の3人の娘は秀吉に。「瓶割り柴田」。水瓶を割って城を出て勝った、という話。
所属
織田氏関わったできごと(1)
賤ヶ岳の戦いAD1583年6月11日(天正11年4月21日) · 自害した本文
柴田勝家は、尾張の愛知郡の上社村(いまの名古屋市名東区)の土豪の家に生まれたとされる。生年は1522年頃とされるが、1526年や1527年とする説もある。若い頃のことはほとんど分からない。織田信秀に仕え、信秀が死んだあとは、その子の信勝(信行)の家老になった。

信秀の跡を継いだ織田信長は、「うつけ」と呼ばれる振る舞いで家中の信頼が薄く、家臣の一部は弟の信勝を当主に立てようとした。1556年、勝家は信勝の側に立って兵を挙げ、稲生の戦いで信長と戦って敗れた。母の土田御前のとりなしで信勝も勝家も許された。翌1557年頃、信勝が再び謀反を企てたとき、勝家はそれを信長に知らせた。信長は病と偽って信勝を清洲城に呼び寄せ、殺した。勝家は主を売ったとも、織田家を守ったとも言える。ここから勝家は、信長の家臣として生きることになる。
戦場での勝家は、勇猛さで知られた。「鬼柴田」「かかれ柴田」と呼ばれ、攻めかかるときの激しさは敵に恐れられた。1570年、近江の長光寺城で六角氏に囲まれ、水の手を断たれたとき、勝家は残った水を兵に飲ませたあと、水瓶を打ち割って退路を断ち、城を出て敵を破った、という話がある。「瓶割り柴田」の渾名の由来とされるが、後世の軍記物に見える話で、事実かどうかは分からない。

1573年に越前の朝倉氏が滅んだあと、越前は一向一揆の国になった。1575年、信長は大軍で越前に攻め込み、一揆を徹底的に鎮圧した。数万人が殺されたと言われる。そのあと勝家は越前のうち8郡を与えられ、足羽川のほとりに北ノ庄城を築いた。前田利家や佐々成政らが与力として付けられ、勝家は北陸方面の軍団長となった。翌1576年、勝家は領内の百姓から刀や武具を取り上げる「刀さらえ」を行い、集めた鉄で農具や鎖を作ったという。秀吉の刀狩りに先立つ試みとして知られる。
北陸の敵は手ごわかった。加賀には加賀の一向一揆以来の一向一揆の国があり、その向こうに越後の上杉謙信がいた。1577年、勝家は加賀に兵を進めたが、手取川で謙信の軍に敗れたと伝えられる。このとき羽柴秀吉は勝家と作戦をめぐって衝突し、無断で陣を引き払って信長の怒りを買った。二人の不和はこの頃から語られている。1580年に加賀の一向一揆の拠点・尾山御坊を落とし、1582年6月3日には越中の魚津城を落とした。それは、前日に京都で本能寺の変が起き、信長が死んだことを知らないままの勝利だった。

越中から京都までは遠く、上杉の反撃もあって、勝家はすぐには動けなかった。その間に、中国地方から引き返した秀吉が山崎で明智光秀を討った。6月27日、尾張の清洲城に織田家の重臣が集まり、跡継ぎと領地の配分を話し合った。清洲会議である。秀吉は信長の嫡孫で3歳の三法師を跡継ぎに推し、勝家は信長の三男・信孝を推したと伝えられるが、結局は三法師に決まった。会議を主導したのは、仇を討った秀吉だった。
この頃、勝家は信長の妹のお市を妻に迎えた。お市はかつて近江の浅井長政に嫁ぎ、長政が信長に滅ぼされたあと、三人の娘とともに織田家に戻っていた。この縁組は信孝の仲立ちによるとされる。勝家は60歳前後、お市は30代半ばだった。
勝家と秀吉の対立は、翌1583年に戦となった。雪で越前から動けない冬の間に、秀吉は勝家方の拠点を切り崩した。春になって勝家は近江の北に出陣し、両軍は賤ヶ岳の周りで向かい合った(賤ヶ岳の戦い)。勝家の甥の佐久間盛政が、秀吉の留守を突いて敵の砦を落とし、深く入り込んだまま退かなかった。美濃にいた秀吉は大垣から50キロ余りをわずか5時間ほどで駆け戻り、盛政の軍を打ち破った。勝家の陣にいた前田利家が戦わずに兵を引いたこともあって、勝家の軍は総崩れになった。

勝家は北ノ庄に逃げ帰った。秀吉の軍がすぐに城を囲んだ。1583年4月24日、勝家はお市とともに天守で自害した。62歳ほどだったとされる。その前夜、勝家は一族や家臣と最後の酒宴を開いた。辞世として「夏の夜の夢路はかなき跡の名を雲居にあげよ山ほととぎす」の歌が伝わり、お市も辞世の歌を残している。城には火が放たれた。宣教師ルイス・フロイスは、勝家が最期まで武人らしく振る舞った様子を、伝え聞いたこととして報告に書いている。お市の三人の娘、茶々、初、江は城を出され、秀吉のもとに引き取られた。茶々はのちに秀吉の側室(淀殿)となって秀頼を産み、江は徳川秀忠の妻となる。
勝家は、信長の家臣の中で最も古くから仕え、最も武勇に優れた一人だった。その勝家が、出自も低く年も若い秀吉に敗れたことは、戦の強さよりも速さと人心の掌握が天下を決める時代になったことを示している。北ノ庄城の跡は福井市の中心部にあり、柴田神社が建っている。