できごと

大坂の陣

Siege of Osaka
AD1615年6月4日(慶長20年5月8日)
重要度 5
大坂の陣に関わる図版:Osakarakuzyou (cropped)
Osakarakuzyou (cropped) Wikimedia Commons Utagawa Yoshitora · Public domain

概要

方広寺の鐘の「国家安康」を家康が難癖にして、1614年冬、20万で大坂城を囲んだ。真田信繁の出丸が徳川を苦しめた。和睦の条件で外堀を埋め、内堀まで埋めた。1615年夏、堀のない城。信繁は家康の本陣に3度突っ込んで、討たれた。秀頼と淀殿は蔵で自害した。8歳の国松は斬首。豊臣が終わり、「元和偃武」。

場所

大坂
34.69°N 135.53°E · 日本・大阪府

関わった人(3)

徳川家康AD1543年–AD1616年 · 囲んだ豊臣秀頼AD1593年8月29日–AD1615年6月4日(慶長20年5月8日) · 自害した真田信繁(幸村)AD1567年–AD1615年6月3日(慶長20年5月7日) · 本陣に突っ込んだ

本文

1615年5月8日(西暦では6月4日)、炎上する大坂城の一角で、豊臣秀頼と母の淀殿が自害した。前の年の冬から二度にわたって続いた大坂の陣は、豊臣家の滅亡で終わった。応仁の乱から150年近く続いた戦乱の時代は、ここで区切りを迎える。

1600年の関ヶ原の戦いに勝った徳川家康は、1603年に征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた(江戸幕府の成立)。一方、豊臣秀吉の遺児秀頼は、摂津・河内・和泉の65万石あまりを領する一大名になった。それでも大坂城は天下一の城で、秀頼は秀吉の跡継ぎとして、西国の大名や朝廷から特別な目で見られていた。家康は1605年に将軍職を三男の徳川秀忠に譲り、将軍の位を徳川家が世襲することを天下に示した。

関ヶ原の戦いに関わる図版:Sekigaharascreen
関ヶ原の戦いWikimedia Commons User LordAmeth on en.wikipedia Collection of The Town of Sekigahara Archive of History and Cultural Anthropology · Public domain

1611年、家康は京の二条城で19歳の秀頼と対面した。秀頼は立派な若者に成長していた。この対面で家康は豊臣家を滅ぼす決意を固めた、と後世の書物は語るが、本当に家康がそう考えたのかは分からない。確かなのは、家康が70歳を超え、自分の死後に豊臣家がどう動くかを案じていたことである。加藤清正ら豊臣家に恩のある大名は、この前後に相次いで世を去った。

きっかけは、秀頼が再建した京の方広寺の大仏殿の鐘だった。1614年、鐘に刻まれた銘文に「国家安康」「君臣豊楽」の句があった。これは家康の名を二つに断ち切って呪い、豊臣を君として楽しむ意味だ、と徳川方は言い立てた。銘文の解釈には、家康の側近の僧金地院崇伝や儒者の林羅山らが関わったとされる。豊臣家の家老片桐且元は弁明のために駿府へ赴いたが、その帰りに大坂城内で徳川方への内通を疑われ、城を去った。且元の退去を、家康は豊臣方の敵対の証しとみなした。

大坂の陣を描いた絵画。黒田長政が依頼し、5071人・21人の将を描いたとされる(17世紀)
大坂の陣を描いた絵画。黒田長政が依頼し、5071人・21人の将を描いたとされる(17世紀)Wikimedia Commons anonymous · Public domain

1614年10月、家康は諸大名に出陣を命じた。徳川方は20万ほど。対する豊臣方には、味方する大名はほとんどいなかった。豊臣家は城の金銀を使って、関ヶ原などで主家を失った浪人を集めた。その数は10万ほどにのぼったとされる。九度山に流されていた真田信繁(幸村)、黒田家を去った後藤又兵衛(基次)、土佐の旧主長宗我部盛親、毛利勝永、キリシタンの明石全登らである。

冬の陣で最も知られるのは、信繁が城の南に築いた出丸、真田丸である。大坂城は北と東と西を川と湿地に守られていたが、南だけは台地が続いていて弱かった。信繁はそこに出丸を築き、自ら守った。12月4日、前田利常、井伊直孝、松平忠直らの軍がこの出丸に攻めかかり、鉄砲で撃たれて大きな損害を出した。力攻めでは落ちないと見た家康は、城を大砲で砲撃させた。イギリスやオランダから買い入れた大砲も使われたという。砲弾の一つが本丸の御殿に当たり、淀殿の侍女が死んだと伝えられる。淀殿は和議に傾いた。

豊臣秀頼
豊臣秀頼Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

12月、和議が結ばれた。条件は、本丸を残して二の丸と三の丸を壊し、城の周りの堀を埋めることだった。徳川方は大勢の人夫を入れて、外側の堀だけでなく、二の丸の堀まで瞬く間に埋めてしまった。徳川がだまして内堀まで埋めた、という話が広く知られているが、二の丸の破却と堀の埋め立てはもともと豊臣方が受け持つはずだったのを、徳川方が手を出して一気に進めた、とする見方もある。いずれにせよ、年が明けるころには、大坂城は本丸だけの裸の城になっていた。

1615年4月、豊臣方が浪人を解雇せず、堀を掘り返していることを理由に、家康は再び出陣を命じた。夏の陣である。堀を失った城に籠ることはできず、豊臣方は城の外に出て戦うしかなかった。5月6日、大和から攻め寄せる徳川軍を河内の道明寺で迎え撃った後藤又兵衛が討ち死にした。同じ日、八尾・若江の戦いでは、若い武将の木村重成が戦死した。

徳川家康
徳川家康Wikimedia Commons Kanō Tan'yū · Public domain

5月7日、決戦の日。信繁は天王寺の茶臼山に陣を構えた。正午ごろ戦いが始まると、信繁は徳川方の越前勢を突き破り、家康の本陣に向かって突撃を繰り返した。家康の旗本は崩れて逃げ散り、家康の馬印が倒された。家康の馬印が倒れたのは、三方ヶ原で武田信玄に大敗したとき以来のことだったと『三河物語』は記す。家康は一時、自害を覚悟したとも伝えられる。しかし兵力の差は覆らなかった。疲れ切った信繁は、天王寺近くの安居神社のあたりで休んでいたところを、越前勢の兵に討たれた。のちに島津家の記録は、信繁の戦いぶりを「真田日本一の兵」と書き残した。毛利勝永も奮戦したが、城へ退いた。

その日の夕方、城内から火が上がり、天守も焼け落ちた。秀頼に嫁いでいた家康の孫娘、千姫は城から助け出された。千姫を通じて秀頼と淀殿の助命も願われたが、許されなかった。翌8日、秀頼と淀殿は山里曲輪の蔵に籠り、自害した。秀頼は満21歳(数えで23歳)だった。

冬の陣布陣図(慶長19年12月)拡大
冬の陣布陣図(慶長19年12月)拡大Wikimedia Commons Original uploader was Jmho at ja.wikipedia · CC0

豊臣の血は絶やされた。秀頼の側室の子で8歳の国松は、城を逃れたところを捕らえられ、京の六条河原で斬られた。娘は千姫の養女として命を助けられ、鎌倉の東慶寺で尼となった。のちの天秀尼である。

この年の7月、年号は元和と改められた。もはや戦はなく、武器を伏せて用いない時代になった、という意味で、のちに「元和偃武」と呼ばれる。幕府はこの年、大名の城を一国に一つに限る一国一城令と、大名が守るべき法、武家諸法度を出した。戦の時代の後片付けが、矢継ぎ早に進められた。家康は翌1616年4月、駿府で数え75歳の生涯を終えた。

カルバリン砲と半カノン砲
カルバリン砲と半カノン砲Wikimedia Commons Public domain

大坂城は、徳川幕府の手で地面ごと埋め直され、その上に新しい石垣と天守が築かれた。豊臣の大坂城はいまもその地下に眠っている。信繁の名は「真田幸村」として江戸時代の軍記物や講談で英雄になり、やがて真田十勇士の物語まで生まれた。幸村という名は、本人が使った確かな記録がない。

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