概要
方広寺の鐘の「国家安康」を家康が難癖にして、1614年冬、20万で大坂城を囲んだ。真田信繁の出丸が徳川を苦しめた。和睦の条件で外堀を埋め、内堀まで埋めた。1615年夏、堀のない城。信繁は家康の本陣に3度突っ込んで、討たれた。秀頼と淀殿は蔵で自害した。8歳の国松は斬首。豊臣が終わり、「元和偃武」。
場所
34.69°N 135.53°E · 日本・大阪府
関わった人(3)
徳川家康AD1543年–AD1616年 · 囲んだ豊臣秀頼AD1593年8月29日–AD1615年6月4日(慶長20年5月8日) · 自害した真田信繁(幸村)AD1567年–AD1615年6月3日(慶長20年5月7日) · 本陣に突っ込んだ本文
関ヶ原から14年。秀頼は大坂65万石。家康は将軍を秀忠に譲り、駿府にいた。1611年、二条城で19歳の秀頼に会って、家康は決めた、と言われる。
1614年、秀頼が再建した方広寺の大仏の鐘の銘に「国家安康」「君臣豊楽」とあった。家康の名を切り、豊臣を君にしている、と家康の側の儒者林羅山と僧の崇伝が言った。難癖。
冬。10月、家康は20万で大坂を囲んだ。豊臣は関ヶ原で改易された大名の浪人を集めた。10万。真田信繁、後藤又兵衛、長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登。信繁は城の南の弱い所に出丸を作った。真田丸。12月4日、前田と井伊の兵が真田丸に殺到して、撃たれた。徳川の死者数千。家康はイギリスから買った大砲(カルバリン砲)で本丸を撃った。淀殿の侍女が死んだ。
12月、和睦。条件は、外堀を埋める。徳川は外堀を埋めて、そのまま内堀も埋めた。1か月で、城は裸になった。
夏。1615年4月、家康はまた来た。5月6日、道明寺で又兵衛が死に、八尾・若江で木村重成が死んだ。5月7日、天王寺・岡山。信繁は茶臼山から家康の本陣に突っ込んだ。3度。旗本が逃げ、家康の馬印が倒れた(三方ヶ原以来)。家康は自害を考えた、と言う。信繁は疲れて安居神社で休んでいるところを討たれた。「日本一の兵」と島津が書いた。
城は燃えた。5月8日、秀頼と淀殿は山里丸の蔵で自害した。秀頼22歳。秀頼の子の国松は8歳で、京で斬られた。娘は尼になった(天秀尼)。
豊臣が終わった。「元和偃武」。応仁の乱から147年の戦国が終わった。家康は翌年死んだ。