鹿ケ谷の陰謀

概要
後白河の側近たちが東山の山荘で平家を倒す相談をし、多田行綱が清盛に密告した。西光は斬られ、藤原成親は流されて殺され、俊寛は鬼界ヶ島に一人残された。『平家物語』の「足摺」。院と平家の間の糸が切れた。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
関わった人(1)
平清盛AD1118年–AD1181年 · 摘発本文
保元・平治の乱のあと、京の政治は二つの柱で支えられていた。一つは、天皇の位を退いたあとも院として政治を動かす後白河法皇、もう一つは、武力と財力で朝廷の頂点に上った平清盛である。二人は互いを必要としていた。清盛は院の後ろ盾で太政大臣にまで進み、後白河は平氏の兵で寺の強訴や反対派を抑えた。二人をつないでいたのが、後白河の后で、清盛の妻時子の妹にあたる建春門院滋子だった。彼女の産んだ高倉天皇が位に就き、清盛の娘徳子がその后になった。
1176年、建春門院が35歳で亡くなると、つなぎ目が外れた。院の近臣たちは、平氏が官位を独り占めにすることに不満を募らせていた。翌1177年の春、院の近臣の西光の子で加賀守の藤原師高が、その代官とともに白山の寺ともめごとを起こし、本山の延暦寺の僧たちが師高を流せと神輿をかついで都に押し寄せた。後白河は一度は譲ったが、まもなく延暦寺の長である天台座主を捕らえて流罪にし、清盛に、比叡山を攻めよと命じた。4月には都の大半を焼く大火も起きており、京は騒然としていた。

清盛にとって、延暦寺と戦うのは気の進まない役目だった。その矢先の6月1日、摂津源氏の多田行綱が清盛のもとを訪れ、院の近臣たちが平氏を討つ相談をしている、と告げた。場所は京の東山の鹿ケ谷にある山荘で、集まっていたのは、院の寵臣の藤原成親、西光、法勝寺の執行の僧俊寛、平康頼、成親の子の成経たちだという。
『平家物語』は、その夜の場面をこう描く。酒宴の席で、成親の袖が触れて瓶子が倒れた。「へいし」が倒れたと聞いて、法皇が「あれはどうした」と尋ねると、成親は「平氏が倒れました」と答え、一同が笑い興じた。物語には、後白河自身もその場にいたと書かれている。ただし、これは後の物語の脚色を含むと考えられている。
清盛の動きは素早かった。西光はその日のうちに捕らえられ、厳しく問いただされた。西光は清盛をののしったとされ、首をはねられた。成親は備前へ流され、そこで殺された。『平家物語』は、崖の下に先の尖った菱を植え、そこへ突き落としたと伝えるが、確かではない。俊寛、康頼、成経の三人は、薩摩の沖の鬼界ヶ島へ流された。この島がどこにあたるかについては、いまの硫黄島とする説と喜界島とする説がある。清盛は後白河も幽閉しようとしたが、長男の重盛が涙ながらに父をいさめて思いとどまらせた、と物語は語る。成親の妹は重盛の妻で、重盛は苦しい立場にあった。
翌1178年、中宮徳子が身ごもると、安産を祈る大赦が行われ、成経と康頼は許されて都へ戻ることになった。赦免状に、俊寛の名前だけがなかった。『平家物語』の「足摺」の段では、迎えの船が出ていくのを、俊寛が浜で砂に足をすりつけて泣き叫び、連れて行ってくれと乞う。のちに、俊寛に仕えた少年の有王が島へ渡ると、やせ衰えた主人がいた。俊寛はまもなく食を断って死んだとされる。俊寛の物語は、能の『俊寛』、近松門左衛門の浄瑠璃『平家女護島』、近代の小説にまで書き継がれた。
鹿ケ谷の陰謀が、どこまで本当にあったことなのかについては、昔から疑いがある。同じころの僧の慈円が書いた歴史書『愚管抄』は、会合の場所を別の僧の山荘としていて、『平家物語』とは食い違う。院の近臣たちが平氏に不満を抱き、何らかの相談をしていたのは確かだとしても、清盛がそれを大きく取り上げたのは、延暦寺との戦いを避け、院の力を削ぐためだったのではないか、と見る研究者もいる。陰謀はでっち上げに近かった、とする説まである。
いずれにせよ、この事件で後白河と清盛の間の信頼は失われた。2年後の1179年、重盛が死ぬと、後白河は平氏の所領を取り上げるなど清盛への敵意をはっきりさせる。清盛は兵を率いて京に入り、法皇を鳥羽の御殿に押し込め、院政の開始以来の院の政治を止めた。こうして平氏政権は朝廷を丸ごと握るが、それは同時に、平氏が都の外にも内にも敵を抱えることを意味した。翌1180年には以仁王の挙兵が起き、福原遷都を経て、源平の争乱へとつながっていく。鹿ケ谷の夜は、『平家物語』では、平家の滅びへ向かう最初の一歩として語られている。