人物

黒田官兵衛

Kuroda Kanbei
AD1546年12月22日 – AD1604年4月19日(享年57)
豊臣氏重要度 4

概要

播磨小寺氏の家老。信長に早くついた。荒木村重に1年幽閉されて足が萎え、頭に瘡。秀吉の軍師。備中高松の水攻めと中国大返しを進言した。「秀吉は官兵衛を恐れた」。如水。関ヶ原では九州で自分の天下を狙ったと言われる。息子長政が福岡52万石。「殿は、その時、左手は何をしていた」。

関わったできごと(2)

秀吉の天下統一AD1590年 · 軍師関ヶ原の戦いAD1600年10月21日 · 九州で

本文

黒田官兵衛は1546年、播磨の姫路で生まれた。名は孝高、官兵衛は通称で、出家してからは如水と号した。黒田家は近江の出と伝えられ、祖父の代に播磨へ来て、この地の大名小寺氏に仕えた。父の職隆は小寺家の家老となって姫路の城を預かり、官兵衛は1567年ごろ家督を継いだ。

黒田孝高(官兵衛)の肖像
黒田孝高(官兵衛)の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

播磨は、西の毛利と東の織田という二つの大勢力に挟まれていた。官兵衛はいち早く織田につくべきだと主君の小寺政職を説き、1575年には自ら岐阜へ赴いて織田信長に会った。1577年、信長の命を受けた羽柴秀吉が中国攻めのために播磨へ入ると、官兵衛は自分の居城だった姫路城を秀吉に差し出し、ここを本陣にさせた。嫡男の松寿丸(のちの長政)は、忠誠の証として織田方に人質に出された。

1578年、摂津有岡城の荒木村重が突然信長に背いた。主君の小寺政職もこれに同調しようとした。官兵衛は村重を翻意させようと単身で有岡城に乗り込み、そのまま城内の牢に閉じ込められた。1年近くに及ぶ幽閉である。湿った狭い牢で、頭には瘡ができて髪が抜け、膝が曲がったまま伸びなくなった。以後、官兵衛は足を引きずって歩き、戦場には輿に乗って出たと伝えられる。

黒田孝高の甲冑
黒田孝高の甲冑Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

官兵衛が戻らないのを見た信長は、寝返ったものと思い込み、人質の松寿丸を殺すよう命じた。秀吉の参謀だった竹中半兵衛は、ひそかに松寿丸を自分の領地にかくまい、殺したと報告した。1579年秋、有岡城が落ちて官兵衛が救い出されたとき、半兵衛はすでに病で世を去っていた。黒田家はのちまで竹中家の恩を忘れなかったという。

ここから官兵衛は秀吉の側近として働く。播磨の三木城を兵糧攻めで落とし、因幡の鳥取城を包囲して飢えさせ、1582年には備中高松城を、川をせき止めて城を水に沈める水攻めで囲んだ。その陣中に本能寺の変の知らせが届く。動揺する秀吉に、官兵衛が「御運が開けましたな」とささやいた、という話がある。後世の記録に見える逸話だが、毛利との講和をまとめて軍を引き返させ、山崎の戦いで明智光秀を討つまでの十日あまり、秀吉の傍らに官兵衛がいたことは確かである。

本能寺の変に関わる図版:Honnoj
本能寺の変Wikimedia Commons Nobukazu Yōsai · Public domain

秀吉の天下取り(秀吉の天下統一)の中で、官兵衛は戦うよりも交渉で城を開かせる役を多く務めた。四国攻め、九州攻めに加わり、1587年、九州平定の功で豊前の中津に12万石あまりを与えられた。1590年の小田原攻めでは、籠城する北条氏のもとへ出向いて開城を説いた。

官兵衛はキリシタンでもあった。高山右近らの勧めで洗礼を受け、シメオンという洗礼名を持った。1587年のバテレン追放令ののちは表立った信仰を控えたが、領内の宣教師を保護し続けたとされる。1589年、まだ40代の前半で家督を長政に譲り、如水と号した。

黒田家伝来の名刀「へし切長谷部」
黒田家伝来の名刀「へし切長谷部」Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

秀吉は官兵衛の才を恐れた、という話は多い。秀吉が近臣に、自分の次に天下を取るのは誰かと尋ね、皆が徳川や前田の名を挙げると、秀吉は足の悪いあの男だと答えた、というものだ。こうした話の多くは江戸時代の逸話集に載るもので、そのまま信じることはできない。

1600年、関ヶ原の戦いで長政は徳川家康の側に立ち、福島正則らを東軍に引き入れ、小早川秀秋の寝返り工作にも関わった。そのころ如水は九州の中津にいた。蓄えた金銀で浪人を雇い集め、にわか仕立ての軍で豊後の石垣原に大友義統を破り、九州の西軍方の城を次々に落としていった。関ヶ原の決戦がわずか一日で終わると、如水も兵を収めた。戦いが長引けば九州を平らげて天下を争うつもりだった、とのちに言われるが、これも推測の域を出ない。

関ヶ原の戦いに関わる図版:Sekigaharascreen
関ヶ原の戦いWikimedia Commons User LordAmeth on en.wikipedia Collection of The Town of Sekigahara Archive of History and Cultural Anthropology · Public domain

長政が戦功を誇って、家康が自分の手を取って礼を言ったと報告すると、如水は、そのときお前の左の手は何をしていたのかと聞き返した。なぜその手で家康を刺さなかったのか、という意味である。黒田家に伝わる逸話の中で最も有名なものだが、これも後世の作り話と見られている。

戦後、長政は筑前一国52万石を与えられ、博多の隣に城を築いて福岡と名づけた。如水はその城下で隠居し、1604年、京の伏見の屋敷で死んだ。数えの59歳。辞世には、思い残す言葉もなく、なるに任せて行く道に迷うことはない、という意味の歌が伝わる。

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