人物

上杉謙信

Uesugi Kenshin
AD1530年2月18日 – AD1578年4月19日(享年48)
上杉氏重要度 5

概要

越後守護代長尾為景の子。長尾景虎。兄を退けて19歳で越後を取り、上杉憲政から関東管領と上杉の名を譲られた。毘沙門天の化身と称し、生涯結婚しなかった。川中島、小田原、手取川で信長を破って、上洛の準備中に厠で倒れた。48歳。「義」の人と言われ、酒を飲みすぎた。敵の信玄に塩を送った話は江戸時代の作。

所属

上杉氏

関わったできごと(1)

川中島の戦いAD1561年10月18日(永禄4年9月10日) · 斬りつけた

本文

1530年、越後の春日山城で、守護代長尾為景の子として生まれた。四男とも三男とも言われ、幼名は虎千代、元服して長尾景虎と名乗った。守護代は、守護の上杉家に代わって国を治める家老の家である。父の為景は主君の守護上杉房能を討ち、関東管領の上杉顕定まで戦いで倒した、下剋上の典型のような武将だった。越後の国人たちはまとまらず、為景は生涯戦い続けた。

上杉神社所蔵、上杉謙信の肖像
上杉神社所蔵、上杉謙信の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

為景が隠居したのは1536年で、その死は同じ年とも1542年とも言われる。景虎は幼くして城下の林泉寺に預けられ、禅僧の天室光育から教えを受けた。家督を継いだ兄の晴景は病弱で、国人たちを抑えられなかった。14歳ほどの景虎は兄の命で中越の栃尾城に入り、攻め寄せた反乱の国人たちを打ち破った。若い弟の武勇を見て、国人たちは景虎のもとに集まり始めた。

兄との間はぎくしゃくし、一時は兵を交えかけた。1548年、守護の上杉定実が仲立ちして、晴景は景虎に家督を譲った。景虎は19歳で守護代となって春日山城に入った。1550年に定実が跡継ぎなしに死ぬと、景虎は将軍足利義輝から国主に準じる格式を認められた。翌年には一族の長尾政景を降し、越後をほぼ一つにまとめた。

春日山城
春日山城Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

そのころ、隣国から助けを求める者たちが相次いで越後に逃れてきた。北信濃の村上義清は、甲斐の武田信玄に追われてきた。関東管領の上杉憲政は、相模の北条氏康に本拠を追われてきた。景虎は両方を助けることを引き受けた。信濃が武田のものになれば、次は越後が脅かされるという計算もあっただろう。こうして景虎の生涯は、西の武田、東の北条との戦いに費やされることになる。

武田とは、北信濃の川中島で1553年から1564年まで5度にわたって対峙した(川中島の戦い)。最も激しかったのは1561年の4度目の戦いで、霧の中で両軍がぶつかり、武田方では信玄の弟信繁が討ち死にした。このとき景虎がただ一騎で信玄の本陣に斬り込み、床几に座った信玄に三度斬りつけ、信玄が軍配で受け止めた、という場面がよく知られるが、これは江戸時代の軍記物『甲陽軍鑑』などに描かれた話で、史実とは確かめられない。5度の対峙で、どちらも決定的な勝利を得られないまま、北信濃はおおむね武田の手に落ちた。

川中島の戦いに関わる図版:BattleKawanakajima
川中島の戦いWikimedia Commons after Katsukawa Shuntei (died in 1824) by Hiroshige (1797-1858) · Public domain

関東へは、生涯に十数回も兵を出した。1561年には関東の諸将を従えて大軍で北条氏の小田原城を囲んだ。城は落ちなかったが、帰り道の鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉憲政から上杉の名字と関東管領の職を譲られた。上杉政虎と名を改め、同じ年、将軍義輝の名の一字をもらって輝虎となった。1570年に出家して謙信と号した。

上洛も2度果たしている。1553年に後奈良天皇に、1559年には正親町天皇と将軍義輝に会った。2度目の上洛では、半年ほども都にとどまった。謙信は、将軍と天皇を頂点とする古い秩序を重んじ、その秩序のもとで関東管領として関東を平らかにすることを自分の務めと考えていたようである。

秋葉公園から眺めた栃尾城本丸跡
秋葉公園から眺めた栃尾城本丸跡Wikimedia Commons nubobo · CC BY 2.0

謙信は毘沙門天を篤く信じ、自分はその化身だと語った。軍旗には毘沙門天の「毘」の一字を掲げた。生涯妻を娶らず、実子もなかった。1556年には突然、国主の座を投げ出して出家すると言い出し、高野山へ向かおうとしたことがある。家臣たちの争いに嫌気がさしたためとされ、家臣たちが忠誠を誓う誓紙を出して引き止めた。酒を好み、馬上でも飲めるよう作らせた杯が残っている。

謙信が「義」の人と言われるのは、他国に出兵しても領土を広げることを目的とせず、頼ってきた者を助けるために戦ったと見られているからである。ただ、関東出兵の際に兵たちが村々で略奪や人さらいをしたことも記録に残っており、出兵は越後の冬の食いぶちを外に求めるものだったという見方もある。

上杉謙信が最初の上洛時に後奈良天皇から下賜された「瓜実剣」(右、現在上杉神社蔵)。
上杉謙信が最初の上洛時に後奈良天皇から下賜された「瓜実剣」(右、現在上杉神社蔵)。Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

宿敵の信玄に塩を送った話は、今川氏と北条氏が武田領への塩の流れを止めたとき、謙信だけは塩止めに加わらず、敵に塩を送ったという筋である。「敵に塩を送る」という言葉の由来になったが、話そのものは江戸時代の書物に初めて現れるもので、作り話と見られている。ただ、上杉方が塩の取引を止めなかったのは事実らしい。

晩年の相手は織田信長だった。初めは友好を保っていたが、信長の勢力が北陸に及ぶと、1576年に手を切り、本願寺とも結んだ。翌1577年、能登の七尾城を落とし、加賀の手取川で柴田勝家の率いる織田軍を打ち破った。上杉に逢うては織田も手取川、はねる謙信逃ぐるとぶ長、という落首が残るが、これも後の作と見られている。

太刀 銘「国宗」とその拵「戒杖刀」(現在個人蔵、重要美術品)。上杉謙信が上洛時、高野山で舜学坊清胤に教えを受けた際に携えていたと伝えられる仕込み杖。
太刀 銘「国宗」とその拵「戒杖刀」(現在個人蔵、重要美術品)。上杉謙信が上洛時、高野山で舜学坊清胤に教えを受けた際に携えていたと伝えられる仕込み杖。Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1578年の春、謙信は関東か上方への大がかりな出兵の準備を進めていた。その最中、3月に春日山城の厠で倒れ、数日後に意識が戻らないまま亡くなった。数えで49歳、満48歳。脳卒中だったと考えられ、日ごろの大酒がたたったとも言われる。辞世として、四十九年一睡の夢、一期の栄華一盃の酒、という句が伝わっている。

跡継ぎを決めていなかったことが、上杉家に深い傷を残した。謙信には二人の養子がいた。姉の子の景勝と、北条氏康の子で人質として来ていた景虎である。謙信の死後、二人は家督を争って越後を二分する戦いになった(御館の乱)。景勝が勝ち、上杉家を継いだが、越後の力は大きく削がれた。上杉家は関ヶ原の後に出羽の米沢に移され、江戸時代を通じて大名として続いた。米沢の上杉神社には謙信が祀られている(上杉氏)。

松山城本丸跡
松山城本丸跡Wikimedia Commons by Oregr · Public domain

宿敵の信玄は、謙信より5年早く死んでいる。その死を聞いた謙信が、食事中の箸を落として泣き、惜しい英雄を失ったと言ったという話も伝わっているが、これも後の書物に見えるものである。義理と武勇の人という謙信の姿は、江戸時代の軍記と講談が磨き上げたものでもある。その磨かれた姿が、今も謙信を戦国の武将の中で特別な人物にしている。

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