人物

豊臣秀頼

Toyotomi Hideyori
AD1593年8月29日 – AD1615年6月4日(慶長20年5月8日)(享年21)
豊臣氏重要度 4

概要

秀吉が57歳で得た子。母は淀殿(茶々、市の娘)。5歳で父が死に、8歳で関ヶ原。大坂65万石の一大名になった。19歳で家康と二条城で会い、家康は秀頼の体格と挙措を見て、この人を残せないと思った、と言われる。身長197センチと伝える。大坂の陣、山里丸の蔵で自害。数え23歳。

関わったできごと(1)

大坂の陣AD1615年6月4日(慶長20年5月8日) · 自害した

本文

豊臣秀頼は1593年、大坂城で生まれた。父の豊臣秀吉は数えで57歳。母は淀殿(茶々)で、近江の大名浅井長政と、織田信長の妹お市との間に生まれた長女である。幼名は拾。捨て子は丈夫に育つという俗信から、いったん捨てて拾ったという形をとったものとされる。

豊臣秀頼の肖像
豊臣秀頼の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

秀吉にとって、待ちに待った子だった。4年前に生まれた長男の鶴松は3歳で死に、秀吉は甥の秀次に関白の位を譲って跡継ぎにしていた。そこへ実子が生まれた。秀吉と秀次の間はぎくしゃくし始め、1595年、秀次は謀反の疑いで高野山に追われて切腹させられた。秀次の妻や側室、幼い子どもたち三十人あまりが、京の三条河原で処刑された。秀頼の誕生は、豊臣家の中の柱を一本、自ら切り倒すことにつながった。

1598年、秀吉は伏見城で死んだ。秀頼は6歳だった。秀吉は死の床で、徳川家康や前田利家ら五人の大老に、秀頼のことをくれぐれも頼むと繰り返し書き残した。だが、その遺言が守られる保証はどこにもなかった。

2年後の関ヶ原の戦いで、石田三成らの西軍は秀頼のためと称して兵を挙げ、徳川家康の東軍もまた秀頼のために逆臣を討つと称した。秀頼自身は大坂城にいて戦場には出ていない。戦後、家康は勝者として全国の領地を配り直し、豊臣家が直接治めていた土地の多くも大名たちに与えた。秀頼の手に残ったのは摂津・河内・和泉の65万石ほどで、天下人の跡継ぎから、大きな一大名の地位に落ちたことになる。

関ヶ原の戦いに関わる図版:Sekigaharascreen
関ヶ原の戦いWikimedia Commons User LordAmeth on en.wikipedia Collection of The Town of Sekigahara Archive of History and Cultural Anthropology · Public domain

1603年、家康は征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた(江戸幕府の成立)。同じ年、11歳の秀頼は、家康の孫で秀忠の娘、7歳の千姫と結婚した。豊臣家の中には、秀頼が成人すれば天下は豊臣に戻るという期待もあった。だが1605年、家康は将軍職を子の秀忠に譲り、将軍は徳川家が世襲するものだと示した。このとき家康は秀頼に上洛して祝うよう求めたが、淀殿は、どうしてもと言うなら秀頼と自害すると言って拒んだと伝えられる。

1611年、家康は改めて秀頼を京の二条城に招いた。淀殿は反対したが、加藤清正や浅野幸長ら、秀吉に育てられた大名たちが説得し、秀頼は大坂を出た。19歳の秀頼と、70歳の家康の会見である。清正は秀頼のそばを片時も離れず、懐に短刀を忍ばせていたと伝えられる。会見は穏やかに済んだ。だが、成長した秀頼の堂々とした姿を見て、家康はこの若者を生かしておけないと考えた、という話がのちに語られるようになった。清正はその年のうちに病で世を去っている。毒を盛られたという噂も立ったが、裏づけはない。

豊臣秀頼像
豊臣秀頼像Wikimedia Commons (伝)花野光明 · Public domain

秀頼は大柄だったと伝えられ、身の丈は六尺五寸(約197センチ)だったとする記録もある。ただし、どこまで正確かは分からない。家康は秀頼に、各地の寺社の再建を勧めた。秀頼は京の方広寺の大仏殿をはじめ多くの寺社を建て直し、秀吉の遺した莫大な金銀は少しずつ減っていった。秀頼自身の手になる書も残っていて、達筆だったことがうかがえる。

1614年、その方広寺の鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字が、家康の名を分断し、豊臣の繁栄を願うものだと咎められた。交渉は決裂し、大坂の陣が始まる(大坂の陣)。豊臣方は全国から浪人を集め、真田信繁(幸村)らが奮戦した。冬の陣はいったん和議になったが、城の堀は埋められ、翌1615年の夏の陣で大坂城は落ちた。

大坂の陣に関わる図版:Osakarakuzyou (cropped)
大坂の陣Wikimedia Commons Utagawa Yoshitora · Public domain

5月8日、秀頼は淀殿とともに城内の山里曲輪の蔵に籠もり、そこで自害した。数えの23歳。最期を見届けた家臣たちも後を追った。妻の千姫は落城の前に城を出され、祖父の家康と父の秀忠に夫と姑の助命を願ったが、聞き入れられなかった。

秀頼には側室との間に二人の子がいた。8歳の息子国松は逃げ延びたところを捕らえられ、京の六条河原で斬られた。7歳の娘は千姫の養女となって命を助けられ、鎌倉の東慶寺に入って天秀尼となった。豊臣の血はこうして絶えた。

秀頼・淀殿の自害の場所(大阪城)
秀頼・淀殿の自害の場所(大阪城)Wikimedia Commons No machine-readable author provided. Fg2 assumed (based on copyright claims). · Public domain

秀頼の遺体は見つかっていない。そのため、秀頼は城を逃れて薩摩へ落ち延びた、という噂が早くから京で流行した。1980年、大坂城の三の丸の跡から、首を切られた若い男性の頭骨が見つかった。秀頼のものではないかと言われ、のちに京都の清凉寺に葬られたが、確かめる手立てはない。

秀頼は、生まれたときから天下人の子であり、物心ついたときにはその天下を失っていた。自分で何かを選べたのは、最後の戦いを受けて立ったことくらいだったのかもしれない。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1593年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →