概要
主君の刃傷で家を取り潰された47人が、1年9か月後に吉良邸を襲い、そろって切腹した。忠義と法のどちらを取るかで幕府は割れ、以後300年、日本人が繰り返し語り直す物語になる。
場所
江戸
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
関わった人(1)
徳川綱吉AD1646年2月23日–AD1709年2月19日 · 切腹を命じた本文
1701年、江戸城の松の廊下で、赤穂藩主浅野内匠頭が高家吉良上野介に斬りかかった。 理由は分かっていない。
その日のうちに浅野は切腹、赤穂藩は取り潰された。 吉良にはお咎めが無かった。 喧嘩両成敗という当時の常識からは、片手落ちに見えた。
1年9か月後の12月14日、旧赤穂藩士47人が吉良邸を襲い、首を取った。 そのまま泉岳寺の主君の墓に供え、幕府の裁定を待った。
幕府は割れた。 主君への忠義は武士の本分である。 しかし徒党を組んで人を殺すのは法に反する。 儒学者のあいだでも意見が分かれた。
2か月後、46人が切腹を命じられた。 罪人としての斬首ではなく、武士としての切腹だった。 どちらの理屈も立てた裁定になる。
事件はすぐに芝居になり、 『仮名手本忠臣蔵』として300年演じられ続けている。 ベネディクトは『菊と刀』で、これを義理の説明に使った。
出典(1)
ルース・ベネディクト(長谷川松治 訳) 『菊と刀 日本文化の型』第7章(義理ほどつらいものはない)