赤穂事件
概要
主君の刃傷で家を取り潰された47人が、1年9か月後に吉良邸を襲い、そろって切腹した。忠義と法のどちらを取るかで幕府は割れ、以後300年、日本人が繰り返し語り直す物語になる。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
関わった人(1)
徳川綱吉AD1646年2月23日–AD1709年2月19日 · 切腹を命じた本文
元禄14年3月14日(1701年4月21日)、江戸城の本丸の松の廊下で、播磨赤穂藩の藩主浅野内匠頭長矩が、高家の吉良上野介義央に斬りかかった。この日は、朝廷からの勅使を迎える儀式の当日で、浅野はその接待役、吉良は儀礼の指南役だった。吉良は額と背に傷を負ったが、命に別状はなかった。浅野はその場で取り押さえられた。浅野は「この間の遺恨」と叫んだと伝えられるが、何の恨みだったのかは分かっていない。吉良が賄賂を求めたからだ、赤穂の塩の製法をめぐる争いだ、といった話は、のちの創作や推測とされる。
将軍徳川綱吉は、勅使を迎える大事な日に城内を血で汚されたことに激怒した。浅野はその日のうちに切腹を命じられ、赤穂浅野家5万石あまりは取り潰された。吉良は、刀を抜かずに耐えたとして咎めを受けなかった。斬りかかった浅野だけが罰せられたため、争いは双方を罰するのが武家の慣いだと考える人びとには、片手落ちの裁きに見えた。

国元の赤穂では、筆頭家老の大石内蔵助良雄が家臣を取りまとめた。城に籠もって討ち死にするか、開け渡すか。議論の末、大石は城を穏やかに明け渡す道を選び、その一方で、浅野の弟の大学長広を立てて家を再興できるよう幕府に願い出た。翌1702年の夏、大学が広島の本家に預けられることが決まり、再興の望みは断たれた。大石はここで、吉良を討つことを決めたとされる。京都の山科で遊びふけって世間の目をそらしたという話は、のちの芝居でふくらまされた部分が大きい。
元禄15年12月14日(1703年1月30日)の未明、雪の残る江戸本所の吉良邸に、旧赤穂藩士47人が討ち入った。表門と裏門の二手に分かれ、2時間ほどの戦いの末、炭小屋に隠れていた吉良を見つけて首を取った。討ち入った側には一人の死者も出なかった。一行は首を携えて隅田川を渡り、高輪の泉岳寺へ向かって、主君の墓前に供えた。途中で一人、寺坂吉右衛門が隊を離れている。理由は、大石の命で事の次第を伝えに行ったとも、逃げたとも言われ、諸説ある。残る46人は幕府に自ら届け出て、四つの大名家に預けられた。

幕府は割れた。主君の仇を討つ忠義は武士の本分であり、世間も儒学者の多くも彼らを称えた。しかし、徒党を組み、幕府の裁きに逆らって人を殺したのは、天下の法に背く。学者の荻生徂徠は、彼らの行いは義ではあっても一つの家のための私の論理であり、法を曲げて許せば天下の秩序が立たない、と論じたと伝えられる。一方で、林家の学者のように助命を説く者もいた。
元禄16年2月4日(1703年3月20日)、46人は切腹を命じられた。罪人として首を斬られるのではなく、武士の名誉を保った切腹だった。忠義を認めながら、法も曲げない。どちらの理屈も立てた裁定になる。吉良家も、討ち入りの際の振る舞いが不届きとされて取り潰された。46人は泉岳寺の主君の墓のそばに葬られ、墓にはいまも線香が絶えない。

事件はすぐに芝居や物語の題材になった。幕府が実在の武家の事件を芝居にすることを嫌ったため、時代を室町時代に、名前を別の人物に置き換えて演じられた。1748年に初演された『仮名手本忠臣蔵』の初演はその決定版で、以後、人形浄瑠璃と歌舞伎で繰り返し上演されてきた。20世紀には、年末になると映画やテレビのドラマとして何度も作り直された。
事件は、日本人とは何かを説明する材料にもなった。アメリカの人類学者ルース・ベネディクトは、1946年の『菊と刀』で、義理、とくに名に対する義理の説明にこの物語を使った。忠義の手本として称えられる一方で、法を無視した私的な報復だとする批判も、事件の直後から絶えずある。何を正しいとするかで、同じ事件がまったく違う物語として語り直されてきた。