足利義満
概要
南北朝を合一し、明と通交した。金閣を建て、能を保護する。
関わったできごと(1)
北山文化と金閣AD1397年 · 当人本文
足利義満は1358年、京都で、室町幕府の2代将軍足利義詮の子として生まれた。幼名は春王。祖父の足利尊氏が後醍醐天皇と争って京都に幕府を開いてから(室町幕府の成立)、まだ20年あまりしかたっていなかった。朝廷は京都の北朝と吉野の南朝に分かれ、幕府の内部でも争いが続き、京都は何度も南朝方の軍に奪われた。義満も幼い頃、南朝方が京都に攻め込んだときに都を逃れ、播磨の守護赤松則祐のもとに身を寄せている。

1367年に父が死に、翌年、義満は数えで11歳で3代将軍となった。政治は管領の細川頼之が預かり、幼い将軍を補佐した。頼之は、南朝との戦いを進めながら、将軍の権威を高める教育を義満に施したといわれる。1378年、義満は京都の室町に壮麗な邸を建てた。四季の花を植えた庭から花の御所と呼ばれ、ここから室町幕府という呼び名が生まれた。
成人した義満は、自ら政治を握った。1379年、頼之が反対派の守護大名たちに追われると、これを認めて管領を替え、自分が裁く立場に立った。その後、強大になりすぎた守護大名を、一つずつ削っていった。1390年には美濃の土岐氏の内紛に介入して勢力を削ぎ、1391年には、全国の66か国のうち11か国を一族で押さえ、六分の一殿と呼ばれた山名氏を、一族の争いにつけ込んで挑発し、京都に攻め上らせて討ち破った(明徳の乱)。1399年には、西国の有力者大内義弘を、堺で滅ぼした(応永の乱)。いずれも、相手を挑発して兵を挙げさせ、幕府に背いた者として討つ、という手順を踏んでいる。

1392年、義満は南朝との交渉をまとめ、南北朝を一つにした。南朝の後亀山天皇が京都に戻り、皇位の印である三種の神器を北朝の後小松天皇に渡した。条件は、今後は両方の皇統から交互に天皇を出すというものだったが、この約束は守られず、皇位は北朝の流れに受け継がれた。半世紀を超えて続いた朝廷の分裂は、武力ではなく交渉で終わった。
1394年、義満は将軍の職を9歳の子義持に譲り、自らは太政大臣となった。武家の出で太政大臣になったのは、平清盛以来である。翌年にはその職も辞して出家したが、実権は手放さなかった。出家の後は、京都の北山に新たな邸を造営し、そこで政治を執った。その中心に建てられたのが、のちに金閣と呼ばれる舎利殿である(北山文化と金閣)。3層の建物の1層は貴族の住まいの寝殿造、2層は武家の住まいの様式、3層は禅宗の仏殿の様式で造られ、上の2層には金箔が貼られたとされる。公家、武家、禅の三つの世界を一つに積み重ねた形は、太政大臣であり、将軍の父であり、出家の身でもあった義満自身の立場をよく表している。

義満は、海の向こうにも目を向けた。中国では1368年に明が建てられ(明の成立)、初代の洪武帝は、日本に倭寇の取り締まりを求めていた。明は、皇帝に朝貢して臣下となった国の王にしか貿易を許さなかった。1401年、義満は博多の商人らを使者として明に送り、国書を届けた。翌年、明の皇帝は義満を「日本国王」に封じる詔書を与えた。1403年、義満は新しい皇帝の永楽帝に送った国書で、日本国王、臣、源と名のっている。1404年からは、明が発行する勘合という割符を持った船だけが貿易を認められる、勘合貿易が始まった。
日本の支配者が中国の皇帝の臣下と名のったことは、後の時代、とくに江戸時代の学者や近代の歴史家から、国の体面を傷つけたとして厳しく批判された。だが、貿易がもたらした利益は大きかった。明への献上品に対して、皇帝からはそれをはるかに上回る返礼が与えられ、明の銅銭や生糸、書物が大量に入ってきた。明の銭は、日本の貨幣としてその後も長く使われた。義満は倭寇の取り締まりにも応じ、捕らえた海賊を明に送っている。

文化の面でも、義満の時代は大きな転換点になった。1374年ごろ、京都の今熊野で、大和の猿楽の一座を率いる観阿弥の舞台を見た義満は、その芸に感じ入り、一座を保護するようになった。とりわけ、観阿弥の子でまだ少年だった世阿弥を寵愛し、そばに置いて連れ歩いた。公家の中には、身分の低い芸人を将軍が寵愛して同じ席に座らせるとは、と日記で非難する者もいた。だが義満のもとで、世阿弥は和歌や連歌など貴族の教養に触れ、田楽や猿楽と呼ばれた芸能は、深い美を求める能へと高められていった。
晩年の義満は、朝廷に対しても君臨しようとした。妻を天皇の母に準じる地位に就け、1408年には後小松天皇を北山の邸に迎えて、20日にわたって盛大にもてなした。その直後、愛した次男の義嗣を、宮中で親王と同じ格式で元服させている。義満が皇位をうかがっていたのではないか、と考える研究者もいるが、そこまでの意図があったかどうかについては異論も多い。
元服の数日後、義満は病に倒れ、1408年5月、数えで51歳で死んだ。朝廷は、天皇の位を退いた上皇と同じ太上天皇の称号を贈ろうとしたが、跡を継いだ義持が辞退した。義持は父のやり方に反発し、北山の邸の多くを取り壊させ、明との貿易もいったん打ち切った。
義満が残した金閣は、のちに寺に改められて鹿苑寺となり、500年あまりのちの1950年に放火で焼け落ちた。この事件は三島由紀夫の小説の題材となった(三島由紀夫『金閣寺』)。いまの建物は1955年に再建されたものである。南北朝の合一、守護大名の抑え込み、明との国交と、義満の治世は室町幕府の最盛期となった。その権威はやがて揺らぎ、孫の足利義政の代には応仁の乱が起こる。