平清盛
概要
武士として初めて政権を握った。日宋貿易を進め、瀬戸内の海運を整える。
所属
日本関わったできごと(3)
平氏政権AD1167年 · 当人鹿ケ谷の陰謀AD1177年(安元3年) · 摘発福原遷都AD1180年(治承4年)6月 · 移した本文
平清盛は1118年、伊勢平氏の武士平忠盛の長男として生まれた。母が誰かははっきりしない。『平家物語』などは、清盛は実は白河法皇の子で、法皇の寵愛を受けた女性が忠盛に与えられて生んだのだと語るが、確かめる手立ては無い。ただ、清盛が若くして異例の速さで官位を上げていったことは、白河法皇の院政のもとで(院政の開始)、父忠盛が院の近臣として重んじられていたことと関係がある。忠盛は、瀬戸内海の海賊を討って西国に地盤を築き、宋の商人との取引にも手を染めていた。清盛は12歳で従五位下に叙せられ、貴族の仲間入りをした。

1146年、清盛は安芸守となった。このとき安芸の厳島神社を深く信仰するようになり、のちに社殿を大きく造り替え、一門の繁栄を祈って、経典を華麗に飾った平家納経を奉納した。父の死後、1153年に平氏の棟梁を継いだ。
清盛が政治の表舞台に躍り出たのは、二つの戦乱によってである(保元・平治の乱)。1156年、皇位をめぐる後白河天皇と崇徳上皇の争いに、摂関家の内紛が絡んで保元の乱が起きた。清盛は源義朝とともに後白河天皇の側について勝った。3年後の1159年、今度は後白河上皇の近臣どうしの争いから平治の乱が起き、義朝が上皇と天皇を押さえて京都を握った。熊野詣での途中だった清盛は急いで都へ戻り、天皇を脱出させて義朝を破った。義朝は東国へ逃れる途中で討たれた。その子でまだ13歳だった頼朝は捕らえられたが、清盛の継母池禅尼の嘆願で命を助けられ、伊豆へ流された(源頼朝)。この判断が、のちに平氏の命取りになる。

源氏の主力が退けられたことで、武士の中で清盛に並ぶ者はいなくなった。清盛は後白河上皇と手を結びつつ、朝廷の中で地位を上げていった。1167年、武士として初めて太政大臣となった(平氏政権)。太政大臣の職はわずか3か月で辞したが、それは名誉の頂点に立ったうえで、実権を握る形に移ったにすぎない。翌年、重い病にかかって出家し、浄海と名のった。病が癒えると、摂津の福原(いまの神戸市)に邸を構えて移り住み、そこから都の一門に指示を送った。
清盛の権力の握り方は、それまでの貴族と同じだった。娘の徳子を高倉天皇の中宮とし、1178年に皇子が生まれると、1180年、わずか数え3歳のこの孫を安徳天皇として即位させた。かつて藤原氏が、娘を天皇に嫁がせ、生まれた皇子を即位させて外戚として力を振るったのと同じやり方である。一門の者たちは高い官職を次々に占め、平氏が知行する国は全国の半分近くに及んだ。清盛の妻の弟平時忠が、この一門でない者は人ではない、と言い放ったと『平家物語』は伝えている。官職と所領を一門で独占したことは、ほかの武士や貴族の不満を集めることになった。

一方で、清盛は貴族とは違う目で海の向こうを見ていた。宋との貿易に力を入れ、大輪田泊(いまの神戸港の一部)を修築し、風や波を防ぐために人工の島を築かせた。瀬戸内海の航路を整え、宋の商船が都の近くまで来られるようにした。1170年には、後白河法皇を福原に招いて、宋の人と対面させている。貴族の九条兼実は、天皇の位にあった人が外国人と会うのは前代未聞だ、天魔の仕業か、と日記に書いて嘆いた。宋からは、絹や陶磁器、書物とともに、銅銭が大量にもたらされた。この宋銭は、日本の国内で貨幣として広く使われるようになり、物と物を交換していた経済を、銭で売り買いする経済へと変えていった。
やがて後白河法皇との関係は冷えていった。1177年、法皇の近臣たちが京都東山の鹿ケ谷で平氏を倒す相談をしていたとして、清盛は彼らを処罰した(鹿ケ谷の陰謀)。1179年、清盛は兵を率いて福原から都に入り、関白をはじめ法皇に近い貴族たちをいっせいに解任し、法皇を鳥羽殿に閉じ込めて院政を止めた。武士が力で朝廷の頂点を押さえた、初めての出来事だった。

1180年、法皇の皇子以仁王が、平氏を討てという命令を諸国の源氏に送って挙兵した(以仁王の挙兵)。挙兵はすぐに鎮められたが、その命令は伊豆の頼朝や木曽の義仲のもとに届き、各地で源氏が兵を挙げた。同じ年、清盛は都を福原へ移した(福原遷都)。海に面した福原を新しい国の中心にしようという構想だったともいわれるが、貴族や寺社の反発は激しく、新しい都の造営も進まず、わずか半年ほどで京都へ戻ることになった。この年の暮れ、平氏に逆らった奈良の寺々を攻めた軍勢が火を放ち、東大寺の大仏殿と興福寺が焼け落ちた。
翌1181年、清盛は高熱に倒れた。『平家物語』は、体が火のように熱く、水を浴びせると湯気になって立ちのぼったと語り、その死に様を「あつち死に」と書いている。死に臨んで、自分の供養はいらない、頼朝の首を墓の前に供えよ、と言い残したともいう。数えで64歳だった。
![月岡芳年『平清盛炎焼病之図(たいらのきよもりひのやまいのず)』[注 11][注 12]縦大判三枚続揃東錦絵。1883年(明治16年)刊行の武者絵。原因不明の熱病に臥せった清盛は三日三晩に亘ってうなされ悶え苦しみ、重ねてきた悪行のために成仏できそうにない己の顛末を想う。そこに閻魔大王が司命・司録と閻魔卒[注 13] を引き連れて清盛の病褥に顕現し、生涯の善行と悪行を一つとて漏らさず記録してきた倶生神](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/58/Yoshitoshi_The_Fever.jpg/960px-Yoshitoshi_The_Fever.jpg)
清盛を失った平氏は、木曽義仲に都を追われ、西へ逃れた。そして清盛の死から4年後の1185年、長門の壇ノ浦で源義経の率いる源氏に敗れ、幼い安徳天皇とともに海に沈んだ(壇ノ浦の戦い)。『平家物語』は、その盛衰を、おごれる人も久しからず、と語り、琵琶法師が語り広めた(『平家物語』と琵琶法師)。そのため清盛は長く、横暴な悪役として描かれてきた。だが近年は、日宋貿易を進めて海に開かれた国を構想し、武士が政治を担う時代を最初に切り開いた人物として、評価が見直されている。頼朝の鎌倉幕府は、清盛の政権の成功と失敗の両方から学んで作られた。