できごと

建武の新政

Kenmu Restoration
AD1333年
重要度 4
シベリアの諸集団元チベットパガン朝クメール帝国スコータイ朝日本高麗大越大越アイヌモシリチャンパAD1333年京都
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1333年の版図を描いています(12勢力)。

概要

鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇が自ら政治を執った。「朕の新儀は未来の先例」。恩賞は公家に偏り、武士は離れ、「此頃都ニハヤル物、夜討強盗謀綸旨」と落書に書かれた。二年半で尊氏が背いた。

場所

京都
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府

関わった人(3)

後醍醐天皇AD1288年–AD1339年 · 天皇足利尊氏AD1305年–AD1358年 · 背いた楠木正成AD1294年–AD1336年7月4日 · 忠臣

本文

1333年5月、鎌倉幕府が滅んだ。京都では、幕府に背いた足利高氏、のちの足利尊氏が、幕府の出先である六波羅探題を攻め落とし、関東では新田義貞が鎌倉に攻め入って、北条高時ら一族を自害に追い込んだ。百五十年近く続いた武家の政権(鎌倉幕府の成立)が、わずか半月ほどのうちに崩れたのである。

その中心にいたのは後醍醐天皇だった。後醍醐は、天皇が自ら政治を執った昔の世を理想とし、幕府を倒す計画を二度にわたって企てた。一度目は事前に漏れ、二度目の1331年には挙兵したが捕らえられ、隠岐に流される。しかし、畿内では楠木正成が千早城などに籠もって幕府の大軍を引きつけ、各地で幕府に不満を持つ武士が立ち上がった。1333年、後醍醐は隠岐を脱出し、やがて幕府の側から寝返った高氏らの働きで、倒幕は成った。

後醍醐天皇(文観房弘真画)
後醍醐天皇Wikimedia Commons Monkan-bō Kōshin · Public domain

6月、京都に戻った後醍醐は、幕府も摂政も関白も置かず、天皇が自ら政治を執る体制を始めた。翌年、年号を建武と改める。中国の後漢を再興した光武帝の年号にならったもので、王朝の再興の意志がこめられていた。政治の中心には、裁判や重要な政務を扱う記録所、土地の訴えを裁く雑訴決断所、手柄に報いる恩賞方が置かれた。後醍醐の言葉として「朕の新儀は未来の先例たるべし」、つまり私が新しく始めることが、これからの先例になるのだ、という言葉が、南北朝の時代の歴史書『梅松論』に伝わっている。

しかし新しい政治は、すぐに混乱に陥った。後醍醐は、土地の持ち主であることを確かめるのに、天皇の命令書である綸旨を必要とした。全国から人びとが綸旨を求めて京都へ押し寄せ、偽の綸旨も出回る。古い記録と新しい命令が食い違い、同じ土地に何人もの持ち主が現れた。恩賞の配分も、倒幕に命をかけた武士たちには不満の種だった。公家や天皇の側近が厚く報われ、武士の手柄は軽んじられた、と受け止められたのである。さらに、天皇の住まいである大内裏を造り直す計画のために、武士に負担が課された。

足利尊氏(浄土寺所蔵)
足利尊氏Wikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · Public domain

1334年、京都の鴨川の河原に、当時の世相を皮肉る長い落書が掲げられた。「此頃都ニハヤル物、夜討、強盗、謀綸旨」で始まる、いわゆる二条河原の落書である。夜討ちと強盗と偽の綸旨が流行り、にわか大名や成り上がり者が横行する都のありさまが、調子のよい文句で次々に並べられている。新しい政治に対する、都の人びとの冷ややかな目がうかがえる。

武士たちの期待を集めたのは、源氏の名門の出である尊氏だった。後醍醐の皇子の護良親王は尊氏を警戒して対立したが、逆に捕らえられて鎌倉へ送られる。1335年、北条氏の残党が北条時行を立てて鎌倉を奪うと(中先代の乱)、尊氏は天皇の許しを得ないまま関東へ下ってこれを破り、そのまま鎌倉にとどまって、自分の判断で武士たちに恩賞を与え始めた。混乱の中で、幽閉されていた護良親王は殺された。新政の開始から、二年半ほどのことである。

後醍醐は義貞に尊氏を討たせたが、尊氏は逆に京都へ攻め上った。一度は敗れて九州まで落ちのびたものの、再び大軍で東へ向かい、1336年、湊川の戦いで正成を討ち取って京都を押さえる。尊氏は別の天皇を立て、武家の政治の方針を定めた。後醍醐は京都を逃れて吉野に移り、自分こそが正統の天皇だと主張した。こうして二つの朝廷が並び立つ南北朝の時代が、半世紀あまり続く。尊氏は1338年に征夷大将軍となり、室町幕府(室町幕府の成立)が始まった。

湊川の戦いに関わる図版:Great-Battle-of-Minatogawa-by-Takeuchi-Tacho
湊川の戦いWikimedia Commons Takeuchi Tachô (aka Utagawa Yoshikane) (Japanese, 1832–1881) · Public domain

建武の新政は、わずか二年半あまりで崩れた。武士の力が世の中を動かす時代に、天皇が直接すべてを治める古い形を取り戻そうとしたこと自体が無理だった、と見る評価が長く一般的だった。一方で、後醍醐の政治を、幕府の仕組みも取り入れながら新しい国の形を探った試みとして見直す研究もある。後醍醐と正成の物語は、のちの時代、とくに明治から戦前にかけて、天皇への忠義の手本として大きく語られることになった。

動画(1)

062 建武の新政 日本史ストーリーノート第07話Historia Mundi ムンディ先生高校の日本史を200講で通す講義の第62講「建武の新政」

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