できごと

倶利伽羅峠の戦い

Battle of Kurikara
AD1183年(寿永2年)5月
重要度 4
倶利伽羅峠の戦いに関わる図版:Battle of Kurikaradani Kassen Zu
Battle of Kurikaradani Kassen Zu Wikimedia Commons Katsukawa Shuntei, 1770-1820, artist · Public domain

概要

木曽義仲が北陸で平維盛の10万を峠で夜襲し、谷に追い落とした。牛の角に松明をつけて放ったという「火牛の計」は後の話。平家は北陸を失い、2か月後に都を捨てて西へ。義仲が京に入り、都の人は「田舎者」と嫌った。

場所

倶利伽羅峠
36.63°N 136.83°E · 石川県・富山県

本文

木曽義仲は1154年ごろの生まれで、源頼朝の従兄弟にあたる。父の義賢は、源氏の内輪の争いで、頼朝の兄義平に討たれた。2歳だった義仲は信濃の木曽谷へ逃がされ、土地の豪族中原兼遠に育てられたと伝えられる。1180年、以仁王の挙兵で全国の源氏に平家を討てという令旨が回ると、義仲は頼朝より少し遅れて信濃で兵を挙げた。

翌1181年、義仲は越後から攻め寄せた城氏の大軍を横田河原で破り、北陸道へ勢力を広げる。都を握る平家にとって、北陸は大事な米の産地だった。西日本はこのころ大きな飢饉に苦しみ、都の食べ物は北陸からの年貢に頼るところが大きかった。1183年4月、平家は平清盛の孫の平維盛を大将に、北陸へ大軍を送り出す。『平家物語』は10万余騎と書くが、実際の数は分からない。平家軍は越前と加賀の義仲方の城を落とし、越中へ進んだ。

北陸地方の地形図
北陸地方の地形図Wikimedia Commons Soren Bradley · CC BY 4.0

加賀と越中の国境には、砺波山の倶利伽羅峠がある。平家軍がこの峠を越えて越中へ出ようとしたところを、義仲は待ち受けた。5月11日、義仲は軍をいくつにも分け、昼のあいだは正面で小競り合いを続けて平家軍を峠の上にとどめた。そして日が暮れると、回り込ませておいた別の隊とともに、前後から鬨の声を上げて襲いかかった。不意を突かれた平家の兵は、道を失って谷へなだれ落ち、人馬が折り重なったと『平家物語』は描く。

この戦いでよく知られるのは、数百頭の牛の角に松明を結びつけて敵陣に放った、という「火牛の計」である。だが、この話は『平家物語』には無く、のちに作られた『源平盛衰記』に初めて現れる。中国の戦国時代、斉の将田単が火を付けた牛の群れで燕の軍を破った、という『史記』の話を借りたものと考えられている。それでも話は広く好まれ、現在の富山県小矢部市の峠には、角に松明をつけた牛の像が立っている。

現在の白山本宮境内
現在の白山本宮境内Wikimedia Commons dennis bloodnok (bloodnok) · CC BY 2.0

勢いに乗った義仲は、加賀の篠原で平家軍をふたたび破った。このとき討たれた老武者斎藤実盛は、年寄りと侮られないように白髪を黒く染めて戦ったという話が『平家物語』に残り、のちに松尾芭蕉も句に詠んでいる。北陸を失い、軍の主力を失った平家は、都を守りきれなくなった。7月、平家は幼い安徳天皇と三種の神器を奉じて都を出て、西へ落ちていく。

7月28日、義仲は京に入った。だが、都での義仲の評判はすぐに悪くなる。飢饉の都で兵の略奪が絶えず、公家の作法を知らない振る舞いは笑いものにされた。後白河法皇は義仲を疎み、鎌倉の頼朝を頼るようになる。11月、義仲は法皇の御所を攻めて実権を握ったが、孤立は深まった。

義仲が都で苦しんでいたこの年の10月、法皇は頼朝に、東海道と東山道の国々の支配を認める命令を出している。都に入ったのは義仲だったが、朝廷が東国の主として認めたのは、鎌倉から一歩も動かない頼朝だった。

翌1184年1月、頼朝の送った弟の範頼と源義経の軍が京へ迫り、義仲は宇治川で敗れ、近江の粟津で討たれた。30歳ほどだった。峠での大勝から、わずか8か月のことである。

『平家物語』は、都で笑いものにされる義仲を描く一方で、最期の場面を美しく語る。女武者の巴を落ちのびさせ、幼なじみの今井兼平と二人きりになった義仲が、粟津の松原で馬を薄氷の張った深田に乗り入れて動けなくなり、射られて死ぬ。兼平は主の死を見届けて、刀の先を口に含み、馬から飛び降りて自害した。大津の粟津に近い義仲寺には義仲の墓があり、その隣には、義仲を慕った松尾芭蕉が自らの願いで葬られている。倶利伽羅峠の勝利は、源氏の勝利への扉を開いたが、その先を歩いたのは義仲ではなかった。

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