概要
八代将軍の徳川吉宗は、裁きが奉行ごとにばらつくのを嫌い、それまでの判決の先例を集めて、罪と罰の基準をまとめさせた。1742年にできた公事方御定書である。下巻は、のちに「御定書百箇条」と呼ばれ、盗みや殺しや密通に、どの罰を科すかを条ごとに定めた。編んだのは寺社・町・勘定の三奉行で、町奉行の大岡忠相も加わった。御定書は公にされず、写しを見られるのは奉行など限られた役人だけだった。罪を犯した者の親族まで罰する縁座を狭め、拷問を使える場合を絞るなど、罰を軽くする向きの改めも含んでいた。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
本文
江戸幕府の裁きは、長いあいだ、決まった法典を持たなかった。奉行は、それまでの判決の先例と、その時々の将軍の命令を手がかりに、事件ごとに罰を決めていた。同じ盗みでも、奉行によって罰が違うことがあった。
享保の改革を進めた八代将軍徳川吉宗は、裁きにも筋道を求めた。1730年代の末から、寺社奉行・町奉行・勘定奉行の三奉行に命じて、幕府の法令と、過去の判決の先例を集めさせた。町奉行の大岡忠相も編纂に加わった。吉宗は自分でも草案に目を通し、書き直しを命じたという。1742年、二巻からなる公事方御定書ができあがった。
上巻は、裁判の手続きや牢屋のことなどにかかわる幕府の法令を集めたもの。下巻は、どの罪にどの罰を科すかを、判決の先例から定めた刑法の書で、のちに「御定書百箇条」と呼ばれた。たとえば、十両を盗めば死罪、といった基準がここで定まる。主人を殺した者は最も重く罰し、一方で、身内の罪で親族まで罰する縁座は狭められ、拷問は重い罪で証拠がそろっているのに自白しない場合などに限られた。
御定書は、評定所の役人や三奉行、京都所司代、大坂城代など、裁きにあたる限られた者だけが見られる、秘密の法だった。民に罰の基準を知らせれば、罰に触れない悪を工夫するだろう、という考えがあった。実際には写しが出回り、諸藩の法の手本にもなった。法を公に知らせることで人々の行いを導くという考えに日本の法が変わるのは、明治になってからである。