概要
尾張荒子。信長の小姓。「槍の又左」。同朋衆を斬って追放され、桶狭間で無断で戦って戻された。柴田の下で北陸、賤ヶ岳で秀吉に寝返って加賀を得た。妻まつ。五大老。秀吉の死後、家康を抑える唯一の人で、秀吉の8か月後に死んだ。加賀100万石。
本文
1539年、尾張の荒子城。前田利春の四男。犬千代。信長の小姓。長い槍で「槍の又左」。傾奇者。1559年、信長の同朋衆(茶坊主)拾阿弥が利家の刀の笄を盗んで、利家が信長の前で斬った。追放。翌年、桶狭間で無断で参加して首を3つ取ったが、赦されず、翌年の森部で赦された。
赤母衣衆。柴田勝家の与力で北陸。越前府中3万3000石。「府中三人衆」(佐々成政、不破光治と)。1581年、能登。1583年、賤ヶ岳。柴田の側で、戦わずに退いた。勝家は退く利家に「長く世話になった」と言った、と伝える。秀吉は加賀を与えた。金沢。
秀吉と利家は、信長の家臣だった頃からの友人で、妻のまつと秀吉の妻ねねも友人だった。秀吉は利家を信じた。五大老。秀頼の傅役。1598年、秀吉が死んだ。家康が大名と勝手に縁組を進め、利家が抗議して、家康と利家が対立した。利家が病気で、家康が見舞いに来て、収まった。
1599年閏3月3日、大坂で死んだ。62歳。翌日、加藤清正らが三成を襲った。利家がいる間は、誰も動かなかった。
息子利長が家督。家康に謀反を疑われ、まつが江戸へ人質に行った。前田は加賀100万石で、江戸時代を通して最大の大名で、生き残った。