武田信玄
概要
甲斐守護武田信虎の長男。21歳で父を駿河に追放した。信濃を取り、川中島で謙信と5回、駿河を取り、三方ヶ原で家康を潰し、上洛の途中、信濃で病死した。「死を3年隠せ」。風林火山。信玄堤。甲州法度。「人は城、人は石垣」。息子勝頼が9年で滅んだ。
所属
武田氏関わったできごと(2)
川中島の戦いAD1561年10月18日(永禄4年9月10日) · 軍配で受けた三方ヶ原の戦いAD1573年1月25日(元亀3年12月22日) · 待っていた本文
1521年、甲斐の守護武田信虎の長男として生まれた。生まれたのは、今川方の軍勢が甲府に迫り、母が府中の館の背後の要害山城に避難していたさなかだったと伝えられる。父の信虎は、内乱の続いていた甲斐を力ずくで一つにまとめた武将で、府中に躑躅ヶ崎館を築いて国の中心とした。16歳で元服したとき、将軍足利義晴の名の一字をもらって晴信と名のった。正室には、京都の公家の名門三条家の娘を迎えている。

父との仲は良くなかった。信虎は弟の信繁をかわいがり、晴信を疎んじたと『甲陽軍鑑』は書いている。信虎は戦を重ね、領民と家臣に重い負担を強いていた。1541年、信虎が娘婿の今川義元を訪ねて駿河へ出かけると、晴信は国境を閉ざして父を甲斐へ戻れなくした。21歳のときである。重臣たちもこの追放に加わっていた。信虎はそのまま今川家に身を寄せ、二度と甲斐の地を踏まなかった。この無血の政変を、甲斐の人々は歓迎したという記録も残っている。
晴信は、まず信濃に目を向けた。1542年、隣の諏訪の領主諏訪頼重を攻めて降し、甲府に連れて来て自害させた。頼重は晴信の妹婿だった。晴信はその頼重の娘を側室とし、二人の間に生まれたのが、のちの跡継ぎ武田勝頼である。続いて伊那、佐久へと兵を進めた。
信濃の攻略は順調ばかりではなかった。北信濃の村上義清との戦いでは、1548年の上田原で重臣の板垣信方と甘利虎泰を失う大敗を喫し、1550年には砥石城を攻めて大きな損害を出して退いた。「砥石崩れ」と呼ばれる敗戦である。それでも晴信は諦めず、1553年、ついに村上義清を信濃から追い出した。
村上義清が頼ったのが、越後の長尾景虎、のちの上杉謙信である。こうして、北信濃の川中島を舞台に、2人の名将の長い対決が始まった(川中島の戦い)。対陣は1553年から1564年まで5度に及んだ。最も激しかった1561年の4度目の戦いでは、信玄の弟で家中の信望を集めていた信繁が討ち死にした。勝負ははっきりつかなかったが、北信濃は最終的に武田の手に入った。

その間に晴信は、周りの大国と手を結んだ。1554年、甲斐の武田、駿河の今川、相模の北条が、互いの娘を嫁がせ合って同盟を結んだ。晴信の長男義信の妻は今川義元の娘だった。背後を固めた晴信は、信濃と越後に力を注ぐことができた。1559年に出家し、信玄と号した。
均衡を崩したのは、1560年の桶狭間の戦いである。今川義元が織田信長に討たれ、今川家は急速に衰えた。信玄は、豊かな駿河と海を手に入れる好機と見た。だが、今川との同盟を重んじる長男の義信はこれに強く反対した。1565年、義信の家臣たちが信玄に背こうとした企てが発覚し、義信は幽閉され、2年後に亡くなった。自害だったとも、病死だったとも言われる。信玄は息子を犠牲にして方針を貫いた。1568年の暮れ、信玄は駿河に攻め込み、今川氏真を追い出した。同盟を破られた北条は怒って武田と戦ったが、信玄は1569年に北条の本拠小田原城を囲み、帰り道の三増峠で北条軍を破った。

国を治める面でも、信玄は優れた手腕を見せた。1547年に定めた「甲州法度之次第」は、家臣や領民の守るべき決まりを定めた法で、その中には、晴信自身が法に背くことがあれば、身分を問わず訴え出よ、という条文まである。甲府盆地を流れる釜無川には、暴れ川の流れを抑えるための堤を築いた。今も「信玄堤」と呼ばれ、その一部は現役で使われている。甲斐の金山の開発を進め、軍を素早く動かすための道を整えた。
1572年10月、信玄は大軍を率いて甲府を発ち、西へ向かった。将軍足利義昭や本願寺などと結んで、織田信長を包囲する動きの一環だった。12月、遠江の三方ヶ原で、徳川家康の軍を一方的に打ち破った(三方ヶ原の戦い)。家康は命からがら浜松城に逃げ帰った。徳川家康にとって、生涯で最大の敗北とされる。

だが、信玄の体はすでに病に冒されていた。翌1573年、三河の野田城を落とした後、病状が悪化し、軍は甲斐へ引き返し始めた。4月、帰路の信濃の駒場の付近で亡くなった。数えで53歳だった。病は胃の病とも、結核とも言われる。『甲陽軍鑑』によれば、信玄は死に臨んで、自分の死を3年の間隠せと遺言したという。武田家は実際にしばらくの間その死を伏せたが、信玄の死の噂は間もなく周りに広まった。
『甲陽軍鑑』は、信玄の家臣の話をもとに江戸時代の初めにまとめられた軍学の書で、信玄の言行の多くはこの本を通じて伝わっている。人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり、という歌もこの本に見えるもので、信玄本人が詠んだかどうかは分からない。信玄が大きな城を築かず、躑躅ヶ崎の館に住み続けたことと結びつけて、家臣と領民こそが国を守るという考えを表す言葉として語られてきた。軍旗に記された「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」は、中国の兵法書『孫子』の一節で、「風林火山」の名で知られている。
跡を継いだ勝頼は、領土をさらに広げたが、1575年の長篠の戦いで織田と徳川の連合軍に大敗し、多くの重臣を失った。1582年、織田軍の侵攻を受けて家臣の離反が相次ぎ、勝頼は天目山のふもとで自害した。信玄の死から9年で、武田家は滅んだ(武田氏)。

だが、信玄の遺したものは家康に受け継がれた。家康は武田の旧臣を大勢召し抱え、その軍の仕組みや戦い方を取り入れた。江戸時代には、『甲陽軍鑑』をもとにした甲州流の軍学が武士たちの間で広く学ばれた。三方ヶ原で信玄に打ちのめされた家康が、その武田の遺産を土台の一つにして天下を治めたことになる。