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Person / 人

武田信玄

Takeda Shingen
AD1521年12月1日 – AD1573年5月13日(享年51)
武田氏重要度 5

概要

甲斐守護武田信虎の長男。21歳で父を駿河に追放した。信濃を取り、川中島で謙信と5回、駿河を取り、三方ヶ原で家康を潰し、上洛の途中、信濃で病死した。「死を3年隠せ」。風林火山。信玄堤。甲州法度。「人は城、人は石垣」。息子勝頼が9年で滅んだ。

所属

武田氏

関わったできごと(2)

川中島の戦いAD1561年10月18日(永禄4年9月10日) · 軍配で受けた三方ヶ原の戦いAD1573年1月25日(元亀3年12月22日) · 待っていた

本文

武田晴信。1521年、甲斐の躑躅ヶ崎館。武田信虎の長男。信虎は甲斐を統一した人で、荒く、弟の信繁を愛して晴信を疎んだ。1541年、晴信は20歳で、父を駿河の今川義元(妹の夫)の所へ追放した。家臣が同意した。父を追ったことを、晴信は言い訳しなかった。

信濃。諏訪頼重を降して自害させ、その娘を側室にした(勝頼の母)。伊那、佐久。村上義清に上田原で負け(板垣信方と甘利虎泰が死んだ)、砥石城で負け(砥石崩れ)、1553年、村上を追い出した。村上が謙信を頼って、川中島。

1554年、三国同盟。1560年、桶狭間で今川義元が死んだ。1568年、駿河へ。同盟を破った。今川氏真を追い、駿河を取った。長男義信が今川との同盟を守るよう反対して、幽閉され、死んだ。1569年、小田原を囲んで、三増峠で北条を破った。

1572年10月、西上。三方ヶ原で家康を潰した。三河の野田城。1573年4月、伊那の駒場で死んだ。53歳。労咳(結核)と言われる。「3年間、死を秘せよ。諏訪湖に沈めよ」。勝頼が秘した。

甲州法度之次第(1547年)。「晴信が法に背けば、身分を問わず訴えよ」の条。信玄堤。金山。甲州金。棒道。伝馬。「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」の歌は江戸時代の『甲陽軍鑑』。「風林火山」の旗。「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」。孫子。

信長は信玄を恐れて、贈り物を送り、養女を勝頼の妻にした。家康は信玄に負けたあと、武田の家臣と軍法を取り込んだ。江戸幕府の軍学は甲州流だった。