前九年の役

概要
陸奥の安倍氏が納税を止め、源頼義が12年戦った。黄海で負け、出羽の清原氏を味方につけ、厨川で安倍貞任を殺した。頼義の子義家が「衣の館はほころびにけり」と歌を詠みかけ、貞任が「年を経し糸の乱れの苦しさに」と返した。源氏が東国の武士を得た。
場所
39.00°N 141.10°E · 岩手県奥州市
関わった人(2)
源頼義AD988年–AD1075年 · 将軍源義家AD1039年–AD1106年8月4日 · 子本文
11世紀の半ば、陸奥国の奥六郡、いまの岩手県の内陸、胆沢から北の北上川の流域には、安倍氏という一族が勢力を張っていた。安倍氏は「俘囚の長」と呼ばれた。俘囚とは朝廷に服属した蝦夷のことで、安倍氏はその取りまとめ役として朝廷に仕えながら、実際には半ば独立した力を持っていた。一族の出自については、蝦夷の有力者だったとする見方と、都から来た官人の子孫だとする見方がある。
安倍頼良(のちの頼時)の代になると、安倍氏は奥六郡の南の境である衣川を越えて南へ勢力を伸ばし、税や労役を納めなくなった。1051年、陸奥守の藤原登任が兵を出したが、鬼切部で敗れた。朝廷は、武勇で知られた源頼義を陸奥守として送った。頼義は以前に平忠常の乱を鎮めて名を上げた源頼信の子である。

1052年、上東門院の病気平癒を祈る大赦があり、安倍頼良も罪を許された。頼良は国守と同じ読みの名をはばかって頼時と改め、頼義に従った。頼義の任期のあいだは平穏が続いたが、任期の終わる1056年、頼義の部下の陣が夜に襲われる事件が起きる(阿久利川事件)。頼義は頼時の子貞任の仕業だとして、貞任を差し出すよう求めたが、頼時は応じず、戦いが始まった。事件は頼義の側の策略だったとする見方もある。
1057年、頼時は流れ矢に当たって死んだが、子の貞任と宗任が戦いを続けた。同じ年の冬、頼義は黄海(きのみ)で貞任を攻め、雪の中で大敗した。『陸奥話記』によれば、頼義の兵1800に対し、貞任の兵は4000で、頼義の周りに残ったのは子の義家らわずか6騎だったという。19歳の源義家は、馬上から矢を放って次々に敵を射倒し、父を守った。人々は義家を「八幡太郎」と呼んで、その弓の腕を神業のようにたたえたと『陸奥話記』は伝える。

その後の数年、頼義は兵が集まらず、戦いは膠着した。安倍氏は奥六郡で税を取り立て、国府の支配は及ばなかった。頼義は出羽の俘囚の長、清原光頼とその弟の武則に参戦を求め、1062年、武則が1万余りの兵を率いて加わった。形勢は一気に変わる。連合軍は小松柵、衣川関、鳥海柵と、安倍氏の拠点を次々に落とし、9月、最後の拠点の厨川柵を囲んだ。柵に火をかけられ、貞任は重傷を負って捕らえられ、頼義の前で息を引き取った。安倍氏に味方していた藤原経清は、鈍い刀でゆっくりと首を切られたと『陸奥話記』は書く。宗任は降伏した。
戦いは1051年から1062年まで12年にわたったが、「前九年の役」と呼ばれている。名前の由来ははっきりせず、頼義が実際に戦った期間を数えたとする説や、後の後三年の役と合わせて十二年と呼ばれていたものが分かれたとする説などがある。
戦いの記録として最も古いのは、戦後まもなく書かれたとされる『陸奥話記』である。よく知られた歌のやりとりは、それよりずっと後の『古今著聞集』に出てくる。衣川の館から逃げる貞任に、義家が「衣のたてはほころびにけり」と呼びかけると、貞任は振り返って「年を経し糸の乱れの苦しさに」と上の句を付けて返した。義家は感じ入って、つがえた矢を外したという。史実とは考えにくいが、武士が歌の教養を備えた者として語られるようになったことを示す逸話である。
戦いの後、頼義は伊予守に、義家は出羽守に任じられた。最大の勝者は清原武則で、俘囚の長としては初めて鎮守府将軍に任じられ、奥六郡も清原氏のものになった。宗任は伊予へ、のち九州へ流された。頼義は鎌倉の由比に八幡宮を勧請し、これがのちの鶴岡八幡宮の始まりとされる。東国の武士たちが源氏の旗のもとで戦ったこの経験は、源氏と東国の結びつきの始まりになった。20年余り後、こんどは清原氏の内紛に義家が介入する(後三年の役)。